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ヴィーガンズ・ハムのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

ヴィーガンズ・ハム(2021年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

ヴィーガンへの「反感」をテコにした「黒い白昼夢」のような映画だ。ならば「黒昼夢」というべきか?なんだか、ヴィジュアル系バンドのようだけど(笑)

さておき。今、検索窓に「ヴィーガン」と打ち込めば「矛盾、宗教、顔つき(顔つきて笑!)…」などといったサジェッションワードが出てくるように、ヴィーガンには「反感」がつきまとう。

なぜか?映画にも描かれるように彼らの一部が「過激な行動」に出るからとか、なんかあの意識高そうな感じが鼻につくとか、いろいろあると思う。けれど、より本質的にはこういうことだろう。

ヴィーガンの着眼が「正しい」から。これだ。少し細かく言えば、その着眼が「正しい」にもかかわらず、我々がただちには、そのようには生きられないようにできている?からだ。

彼らは言う。肉食や卵食は、牛・豚・鶏などの動物を過酷な飼育環境にさらすと。そのうえ彼らを殺めて食うのだから「超残酷」なのだと。

また、こうも言う。畜産は環境負荷が高いのだと。例えば1kgの牛肉を作るには、20000Lの水と10kgの穀物が必要なのだと。また、食肉や乳製品を生産する際に出るCO2の排出量は世界の14.5%を占めているのだと。それは、植物性タンパク質の生産と比べればはるかに高いのだと。

自分は、それらの主張は視点としては「正しい」と思う。「残酷さの回避」も「温暖化の回避」も「正しい」。そう言うしかないと思う。

これに対し、「いや、野菜農家だって作物を守るために害獣を殺めるじゃないか!」とか「そうやって畜産農家を廃業に追い込むことの方が残酷じゃないか!」とか、いろいろ批判があがる。ただ、それらは、それなりに聞くべきところはあるものの、大きく言って「屁理屈」だと思う。「批判したい」という意図が先にあって、後付け的にひねり出された理屈にみえる。

けれども。ここから先が問題なのだが、人間はそれが「正しい」からといって、ただちに「そちらの方に進める」ようにはできていない。

なぜといって、人間は別の生き物を殺して食わねば生きていけないのだから。また、単なる「栄養補給」を超えた「欲望(もっと美味く、もっと新しく…等)」をもってしまうのだから。

そうなると究極的には「残酷さを回避」することも「炭素を激減させる」ことも難しくなる。

つまり、普通に進むと「不正」につながるが、かといって逆に進んでも「ゴール」にはたどり着けない。仮に動物を食わないとしても、植物は食わざるを得ず、ならば植物の命を奪うという「残酷」な事をしていることに変わりはないわけだから。

けれど、ヴィーガンはその「困難」を無かったことにしてしまう。「肉食を回避したからクリア!」みたいにしてゴールにたどり着けないことを見ないようにしている。

もしくは、ゴールには辿り着けず、結局のところ「50歩100歩」なのにも関わらず「私は100歩先にいるんだ」とマウントをとってくるように感じてしまう(とはいえ50歩より100歩の方がマシなことも事実だ)。

ともあれ、そこに「反感」の根源がある。
言い方を変えると、彼らに「欺瞞」があるからというより、我々の側に「欺瞞」があることが明るみになってしまうから「反感」を覚えるのだと思う。

けれど、繰り返しになるが、ヴィーガンの視点は正しいけれど、自分も含め多くの人は、すぐにはそっちに行けない(ようにできている?)。だからフラストレーションがたまる。

そこで「一矢報いたい」という欲望が沸き上がる。沸き上がってきてしまう。

では、どのようにして「一矢報いる」か?ヴィーガンの「不徹底」を突けばいい。そう、ヴィーガンは「不徹底」だ。なにしろ、彼らは「残酷は避けるべきだ」と言って肉食は避けるが、植物は「殺して」うまそうに食っているのだから。

だからその「一矢報いたいという黒い欲望」は、「不徹底」を突く。「そんなの人間だろうが、動物だろうが、植物だろうが、うまければ食えばいいんだよ!」と。「どや!徹底してるやろ!」と。

これこそが、映画内の肉屋を通じて描き出される「黒い白昼夢」だ。ヴィーガンのハムとはアンチヴィーガンのストレスにより生み出された黒い結晶だ。

映画内の肉屋の夫婦は、ある日、自分の店を襲撃したヴィーガン集団の1人を憎しみと偶然からひき殺してしまう。だが、その「解決策」としてヴィーガンの肉をイラン豚の肉だと偽ってハムにして売るという方法を編み出す。

この「ヴィーガンハム」はすこぶる美味なため、瞬く間に、街の人たちの支持を集めるようになる。こうして「そんなの人間だろうが、動物だろうが、植物だろうが、うまければ食えばいいんだよ!」「どや徹底してるやろ!」が黒い笑いと共に実現する。「ヴィーガンへ一矢報いる黒い欲望」が満たされる。

とはいえ。一矢は報いたのかもしれないが、誰もが感じるように、そういう人間は人としては「終わって」いる、、(笑)。

そのため、「人として終わりたくない」肉屋のオヤジの行動は、一貫しないものになっていく。ヴィーガンは狙うが、ヴィーガンの女は狙わないし、ヴィーガンの子供も狙わない。だが、妻に近づくヴィーガンは女だろうと即死だ!…と、滅裂なものになっていく(笑)。そして、それに感化されたのか、ラストには妻も「人間らしいこと」を言ってエンディングとなる。

つまり「白昼夢」はやはり「夢」でしかないことが告げられ幕を閉じる。

では、どうしたらいいのだろうか?つまり、ヴィーガンの視点は正しいけれど、自分も含め多くの人は、すぐにはそっちに行けない(ようにできている?)。これをどう考えるのか?

映画では、大規模精肉チェーンの「勝利」が描かれる。
肉にされるヴィーガンや、逮捕される肉屋夫婦を横目に、多くのチェーン店を持ちウハウハの経営者と、何でも××万ユーロに換算する妻が、ニュースのインタビューを受け高笑いする姿が映し出される。

ようは、ヴィーガンは正しいかもしれないが、我々はそのようには生きられないんだよと。そう開き直って生きるしかないのだと。映画はそう言っているようにみえる。

ただ、現実はもう少し複雑だ。ヴィーガンフード市場全体は、2019年から2025年にかけて年平均成長率9.6%で成長すると予測されている。そう、ヴィーガンは着実に増えている。ひょっとしたら、タバコのようになるかもしれない兆しも見えている。昔は「吸わねえで仕事ができるかよ!」と言っている人も多かったが、今はどうか…?

また、クリーンエネルギーを活用した培養肉など「残酷さ」も「温暖化」も回避するテクノロジーも進化しはじめている。ヴィーガンの着眼点の正しさを維持しながら肉を食う道が開け始めている。さっきから「多くの人は、すぐにはそっちに行けない(ようにできている?)」と「?」をつけてきたのは、そのだめだ。

もちろん、こうしたヴィジョンこそが「巨大な白昼夢」でない保証はどこにもないのだけれど……。そんなことを思わされた(どないやねん!と思うかもしれないが、映画はスキッとした答えを出すために観るものではない)。
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