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福田村事件のJFQのネタバレレビュー・内容・結末

福田村事件(2023年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

関東大震災から100年、「フェイクニュース問題」や「ヘイトスピーチ問題」等との類似性、森達也監督とくれば「社会派全開!」を嫌がおうにも期待する。
けれど、観た印象を言えば「裏返した日活ロマンポルノ」という感じだった(笑)

何を言っているかといえば。かつての日活ロマンポルノは「裸」をネタにしつつ「社会」を描いていた。もちろん、裸をネタにしつつ、裸を描いていた映画が大半だったと思う笑(それはそれで好きだけど)。けれど、そこは「10分おきに裸が出る」「全体で70分」というルールさえ守れば「後は何を描いてもよし!」の「解放区」だった。
だからこそ心ある制作者たちは、60年代の「政治の季節」が終わった後の「自分たちの社会のリアル」を描いてやろうと思った。そして「裸」を隠れ蓑に「社会」を描いていた。

対して、この映画は「社会派」を隠れ蓑に「裸」を描いているような感じがした。

いや、それだけ書けば「虐殺事件を扱った映画を評してポルノとは何ごとかー!?」と、心ある人たちに叱られるのかもしれない。けれど、この「裸」こそが大切なのだと、制作チームは言っている。そう思った。

というのも。この映画の最大のポイントは、皆が注目する「後段」=「福田村虐殺」以上に、そこに至る「前段」にあると思ったからで。

素朴に観れば「前段」の描き方は、正直「奇妙」だと思う。
一応、あらすじを言っておけば。舞台は今は千葉県野田市に属する福田村。時期は1920年代前後。日清戦争、日露戦争と勝利し、第一次世界大戦でも「負け側」には立たなかった日本。だから軍は輝いていた。そのため「在郷軍人会」の面々が地域を取り仕切っていた。そんな中、1923年、関東大震災が発生。その際、都市部では「(普段日本人がいじめていた)朝鮮人が暗躍しているぞ!」との情報が飛び交う。と、その頃、福田村に「四国の行商人集団」がやってくる。彼らは村民とトラブるだけでなく、聞き取れない方言を話す。その様子をみて村民たちは「こ、こ、これは、朝鮮人が大震災の混乱に乗じて村を乗っ取るのでは!?」と、怯え始める。そして、彼らは「自衛」のため村を挙げて「四国の行商人集団」を「討伐=虐殺」しにかかる…という筋立てになっている。

こうした筋立てをとるなら、普通は「日本人が普段朝鮮人をどういじめていたのか?」とか「虐殺の主体となる在郷軍人会とはいかなる集団なのか?」みたいなことを前段で掘り下げると思う。

けれど、映画はそうしていない。ぶっちゃけ言えば、いなくても成り立つ登場人物たちの「男と女の物語」にけっこうな時間を割いている。

具体的に言えば、シベリア出兵で夫を失った妻(コムアイ)と、村の船乗り(東出昌大)のロマンスであり、朝鮮半島から舞い戻った夫婦(井浦新&田中麗奈)の「倦怠」と、ひと夏のロマンス(田中×東出)である。さらに言えば、義父(柄本明)と嫁(向里憂香)の「お、お義父さん…」的なロマンスだ。これを「ロマンポルノ的」と言わずして何という(笑)

けれど、この「前段」なり「裸」なりが決定的に重要だと主張するのがこの映画なんだと思う。

なぜこういうことを延々描いているかといえば、「二種類の人間」に注目することが何より大切だと。映画はそう言いたいのだと思う。

映画には様々な属性の人間たちが描かれる。村の人たち、村の「軍人」たち、村の「インテリ」、都会の「インテリ(夫婦)」たち、社会主義者の人たち、新聞社の人たち、四国からやってきた行商人の人たち…

けれど、それらの属性よりも大事なのが「2種類の人間」なのだと。つまり①「この世界はこの形でしかない」と思う人間/②「この世界は別の形でもありうる」と思う人間。この2つが重要なんだ、と。この分類が映画の「後段」に関わってくるのだと。これをわからせるためにこそ、前段で、様々な属性の人たちの生活を描いたのだと。つまり「世の中にはいろんな属性の人がいる」「でも、ぶっちゃけ①と②なんだ!」と。

では、①は誰で、②は誰なのか?映画はこう告げる。「①は着ている人で、②は裸の人だ」と(笑)

具体的に言えば、②の人たちとは、シベリア出兵で夫を失う中、間男に裸を見せたコムアイであり、だいたい半裸の(笑)の東出であると。また、朝鮮半島から夫と帰りながらも船頭に手を出した「なっちゃん(田中麗奈)」だと。はたまた、夫がありながら義父(柄本明)に裸をみせた向里憂香であると。さらには、社会的身分を「はぎ取られた」、部落民のリーダーの永山瑛太だと。映画はこう言っている。

彼らが属する集団はそれぞれ違う。具体的には「不倫した人たち」であり「地元から逃げたインテリ(の妻)」であり「被差別民」だ。けれど、彼らはみな「人前では服を着ろ!」「人前では社会的身分を名乗れ!」に象徴される「社会のルール」の「外」にいる。「シモネタ」で言えば「エクスタシー(肉体の外に出る)」な人たちだ。

彼らは「この世界はこの形でしかない」に対し違和感を抱いている。だからこそ「この世界のこの形」を超える。超えてしまっている。
それに対し「この世界はこの形でしかない」と思う人たちが彼らに罵詈雑言を投げつける。「お前は姦通罪だ」「お間はお国のためになっていない」「お前はこの村にいる資格はない」と言って。

「福田村事件」の本質はこれなんだと。だからこそ「奇妙な前段」があったのだと。

では「①この世界はこの形でしかない」と「②この世界は別の形でもありうる」は「後段(福田村虐殺)」とどんな関係があるのか?これらは少し考えれば「居場所」に関係しているのだとわかる。

例えば「この世界はこの形でしかない」と思う人にとっては、この世界への侵入者は脅威だ。「この形でしかない世界」を壊されれば、もう他に世界はないのだから。

対して「この世界は別の形でもありうる」と思う人は違う。彼らにしてみれば、究極、この世界が壊れたとしても「別の世界」で住めばいい。だからこそ「落ち着く」ことができる。

組織理論で、よく引用される「VOICE(異議申し立て)」と「EXIT(離脱)」を思い出してもいい。
これは、ざっくり言えば、組織に異議申し立てをするには①「声を上げる(VOICE)」と、②「変わらんなら辞めますわ(EXIT)」があるという議論だ。
この際、重要なのは、①と②が大きく結びついていることで。つまり「辞めて別のとこに行きますわ!」が現実的選択肢に挙がっている時にこそ「変えてくれませんか!」が効力を発揮すると。「どうせダメでも他のとこに行けばいいや!」と思えるからこそ、勇気を出してこの場所で声を挙げることができるのだ、と。

そこから考えるならば「この世界はこの形でしかない(EXITなどない)」と思う人たちにとって関東大震災は大きな脅威となる。「この形でしかない世界」が、終わるかもしれないのだから。だとすれば、必死で終わらせまいとする。この世界にとっての「異物」は徹底排除しようとする。世界に声を挙げる=「別の世界を突き付ける」なんてもっての外だ。

また、一度「異物の排除」が始まると、それに加担しないものは後々「居場所」がなくなる。「お前、あんとき手を抜いたな!」となじられれば、その後、村での居場所はなくなる。ならば、「この世界はこの形でしかない」と思う人は、朝鮮人が怖かろうと、怖くなかろうと「やる」しかない。怖いのは朝鮮人ではない。「この形でしかない世界」で「座席を奪われる」ことだ。

対して、「この世界は別の形でもありうる」と思う人は、関東大震災の混乱に際しても立ち止まることができる。いざとなれば、別の世界に行けると思えるのだから。ただ、それが大きな力にはならないことも描かれるのだけど。。。

映画は人を①と②とに分ける大きな要因として「劣等感」を挙げる。物語は「虐殺」のキーパーソンとして「在郷軍人会」の要人=水道橋博士と、村人の松浦祐也を描く。

水道橋は、同級生の豊原功補(村のインテリ)や井浦新(都会のインテリ)に「知的な劣等感」を抱いているし、松浦は「父(柄本明)に妻を寝取られた」という「男としての劣等感」を抱いている。
それらは、つまるところ「知によって別の世界にアクセスできない」という劣等感であり、父が与えることができた「エクスタシー(肉体の外=別の世界)」に自分はアクセスできないという劣等感だ。

「世界が別の形でもありうる」が受け入れられないし、わからない。もっと言えば、そんな見慣れない世界は怖い。そういう人間は、どういうマインドセットとなるか?おそらくこうなる。

いや、俺は「別の世界」が分からないんじゃない!この世界のルールを誰よりも守っているだけなのだ!逆に「別の世界」などとほざいている輩は、この世界のルールをズルしている奴だ。現に、国を守るべきところで「勉学のためだ」と言って消えたじゃないか?「不倫」してるじゃないか?だからこそ俺は、「この形でしかない世界」を守るべく「ズルした輩」を徹底的に軽蔑するのだと。こういう心の動きになるはずだと。
これが「福田村事件」のメカニズムなのだと。

先に「社会派映画」を「ネタ」にして「裸」を描いたと書いたのは、こういうことを言いたかったからだ。

ただ。だとして、劣等感から「この世界はこの形でしかありえない」と思う人たちを「この世界は別の形がありうる」に導けるのだろうか?
それがなければ「ゾンビに噛まれた話」と違わなくなってしまう。ゾンビになった奴を人間に戻すことはできない。後は「逃げるしかない」のだから…。

映画では、それに対する「答え」として衝撃のビジョンが打ち出される。
「天皇の赤子=天皇の下に平等」を謳う在郷軍人会&村人に対し、行商集団が「水平社宣言=人類の平等」を唱和するのだ。
つまりは「天皇の下に平等=天皇の下になければ排除」という思想の「外」を突き付ける。「別の世界の形」を突き付ける。それは感動的な光景だ。けれど、その言葉は刺さったのか?
その後の、そして今の日本を見るに、刺さったかといえば……

そして映画は「漂流」しながら幕を閉じる。
船に乗った主役夫婦(井浦&田中)が、川辺でたゆたいながら、途方に暮れる姿を映し出し物語を終える…。
「この世界は別の形でもありうる」「けれど、それを実現しようにもどちらに向かえばいいか分からない」…と。

けれど、夫婦を笑えるだろうか?悲劇から100年。我々は、未だ漂っているわけだから…。映画はそう告げているのだと思う。
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