Torichock

福田村事件のTorichockのレビュー・感想・評価

福田村事件(2023年製作の映画)
4.0
<作品を振り返る私自身の主義と憎むべきモノ>

私がこの世で一番気持ちが悪いと感じるものは蛙と全体主義だ。
なぜなら、どちらもヌメっとしてて気持ち悪いからだ。全体主義の方に関しては、どこまでいっても人間は一人だという考えが根本にあるから。
結局のところ、自分が何を感じ、何を考え、どう行動するか、しかないと私は思っている。そのためには、"フラット"な情報を更新し続け、常に考え続ければいけない。なので、

・自分が進みたい方向の考え方にフィットした場所に組み入り、自分"たち"と違う考えを持つ人に遠くから石を投げ続け、誰かが攻撃をしたあとで自分には仕返しが来ないと確定するやいなや、一斉に攻撃を仕掛ける卑劣な群衆の一人

・自分が進みたい方向の考え方にフィットした情報だけを食い続け、処理能力がないため"考える"ことを長く持てないから答えを速攻は出して思考停止。あげく、あとは感情論に脳みその全てを委ねるような群衆の一人

は根本的にアホだと思う、アホは考えたくないし考え続けるのが苦手だからね。
考え続けるということは、思ってるよりもずっとずっとカロリーもいるし、難しいことだと思う。
まぁ、こうやって分類してるお前もそのうちの一つだろ?と言われたら、まぁそれまでかもしれないけれど、あいにく自分には主義やらイデオロギーやらでつるむような仲間はいない。
仲間といる時だけやたら声がでかくて、一人になると萎縮してSNSでしかモノが言えないようなヤツは知り合いにはいないと信じたい、まぁすでにチラホラ頭に浮かんだけどな、ガハハハ。

とてもセンシティブな内容をはらんでいるので、この先に続く言葉への責任として、宣誓しておかなければいけないと思ったので。

<流言飛語で泳がされた心の弱い人間が起こした悲劇>

今からちょうど100年前の1923年9月1日、
関東大震災が発生し、死者・行方不明者の数は推定105,000人という人数に登った。(東日本大震災の被害者数が約23,000人)
そして超有名な話として、震災の不安からなのか日本人が朝鮮人を殺しまくったっていうのももちろん知ってた。
殺した理由は井戸に毒を入れたとか略奪・強盗しまくってるとか囚人が脱獄して暴れ回ってるだとか、その手の類の流言飛語に踊らされて、自衛のために殺しまくった。中国人も殺しまくった。
考え方や思想の異なる日本人も殺しまくった。
自分と違うものは怖いからとにかく殺しまくった。
(犠牲者の数が数百人〜6,000人という幅の広さが、物事をうやむやにしてきた感を物語ってるなとか思う)

かつて日本が朝鮮半島を統治・占領していた際、朝鮮人による三・一運動という独立運動があって、日本の憲兵による鎮圧での犠牲者数は7,509名と記録されている。被害者の人数だけではなく、この鎮圧の内容に関しても、日本側の記述と韓国側の記述には相違がある。(日本側は運動に対して平和的な対処を行っていて、一部武力的な鎮圧を行ったとしている)
この運動から4年後に起きた震災だった。
日本人の心の中にあった「いつか仕返しをされるかもしれない」という恐怖心が、流言飛語の信ぴょう性を高めてしまったのかもしれない。

この作品は、千葉県東葛飾郡福田村(現・野田市)で起きた事件の映画。
本作の「福田村事件」のストーリーをざっくりいうと、

香川県(作品内では讃岐と呼称されている) から薬を売りながら東京を目指しながら旅していた行商団15人を、震災後の騒動と流言飛語にやり朝鮮人にビビりまくる村の在郷軍人による自警団が、「訛ってる」「怪しい」という理由で
「十五円五十銭って言ってみろ」(朝鮮人は舌が回らないから)
「歴代の天皇陛下の名前を言え!」
「天皇陛下万歳!と大きな声で言え!」
と、FUCK OFFな難癖で恫喝しまくる。
そこに満州から夫の帰りを待つ女が現れる。
彼女は満州で夫が殺されたという噂を真に受けていて、なんと全く関係ない行商団の一人を朝鮮人だと思い込み殺してしまう。
誰かが手を出すのを待っていたかのように、そこから在郷軍人と村人たちの自警団による勘違いの惨殺劇が始まる・・・。

メインストーリーは上記内容だが、もちろんそこに至るまでの展開で、日本人による朝鮮人の一方的な粛清や、社会主義者の活動家などの殺戮もしっかりと描かれる。

<心の弱い部分を憎悪と悪意が埋めていく>

今こうして書いててもなんて胸糞悪い話なんだと思う。
私が思うに、多分この映画の登場人物に極端な悪人はいなくて、誰もが身近に
"いるいる、そういう人"って感じの登場人物だった。自分の大切な何かを守りたい気持ちは誰にでも存在しているし、当たり前のこと。
ただ、この事件の質の悪さはそこなんじゃないかと思う。

水道橋博士演じる在郷軍人・長谷川が、行商人9人(女子供含む)を惨殺したあとになって、彼が本当に"日本人"だったことを知ると、彼は慟哭するかのように涙を流しながら、
「村を守るためにやったのに」「お国を守るためにやったのに」と叫ぶ。
笑ってしまった。
常に、個人より大きい何かに自分が属していていないと善悪の判断ができない。隷属下に身を置いていないと、安心して自分の選択さえできない。そこに冷静な個人としての考えを通すフィルターがない。そういうものを持ってる人間は、村の外に追い出されてしまう。
この構図は、目に見えない何かを盲信させて、それ以外の考えを否定する・あるいはコミュニティに持ち込ませない、自分たちの神こそが真の神だと信じて疑わない新興宗教と同じだ。
だから私は新興宗教を嫌う、心の底から。

心の弱さが人を強くすることもあるかもしれない。
だけど、往々にして心の弱さというものは、他人を傷つける刃となることの方が断然多い。
優しくて弱いからこそ質が悪いんだ。
そもそもこの状況をおかしいと思えないもそれを口に出せないこともおかしいのに、それに誰も気づけないし言えない人たちなんだから。
自分たちの理解の外にあるものや未知の存在にビビるのは分かる、海とか超怖いし。
でもだからこそ、敬意を持たないといけないんじゃないか?自分にとってどんな存在か、本質を理解してから手を打つんでもイイんじゃないか?
でもそれができない、殴られるかもしれない恐怖に耐えられないから、
みんなで囲って殺しちまうんだ。
そもそも大前提として、村全体が日本人を殺してまったから悲劇のような空気感を出しているんだが、これが本当に朝鮮人だったら英雄として語られたのかもしれない。
朝鮮人なら殺してもええんか?

共通の話題、共通の言葉、共通の肌の色、共通の意識、共通の文化、共通の好きと嫌い、共通の敵と共通のターゲット
それがあると安心するし、自分がどこに存在してるかわかる。
この共通の枠外いる人間には、どうやら優しさというものは対象外に当たるようだ。
憎悪は簡単に心の隙間に入り込むんだ、情報という名を借りて。

<多分きっと100年後も同じだよ>

彼らも好き好んでこの状況に陥ったのではないと思う。持ち前の心の弱さを流言飛語が揺さぶったからだ。
ちょうど100年前の今頃は、誰かが言い出した
「朝鮮人が井戸に毒を入れた」とか「朝鮮人が略奪・強盗しまくってる」とか「囚人が脱獄して暴れ回ってる.」という噂話を、また噂好きの誰かが誰かに拡げて…そうやって瞬く間に駆け巡ったんだと思う。
もしかしたら、本当に略奪や強盗はあったかもしれないし、朝鮮人が犯した罪もあったかもしれない。
けれど、世の中の流れは違った。全て朝鮮人に押し付けた。
なぜか??
それはきっと、その方が楽で簡単だから。
共通の外にいる奴がやったことにしてしまえば、判別も怒りの矛先もシンプルで理解だから、そうすれば考えないで済むから。

振り返って考えてみると、こんなことついこの10年内でもニュースで見た気がするくらいだ。
東日本大震災のあと、避難してきた人たちに向けられた「菌」「こっちに来るな」「放射能」「消えろ」などの原発いじめや、コロナ禍における相互監視と同調圧力、親の仇でも取る勢いで目を光らせる自粛警察たちの面々。

舞台あいさつで水道橋博士も言っていたが、
我らがタモリが2023年の総括を「新しい戦前になるんじゃないでしょうか」と語ったのが一部で話題になった。
それはもちろん、ウクライナ情勢のこともあるし、いつ起こるかもしれない台湾有事のことかもしれない。それこそ、近い将来超高確率で発生するといわれている南海トラフ巨大地震もある。
ただ、私はそういう意味での発言ではなかったのではないかと推測する。

情報化社会の真っ只中を生きる私たちは、正確な情報で物事を判断できるような発展を遂げたように思えるのかもしれない。
でも現状、周りを見てみるとすぐにわかるはずだ。
自分たちの知りたい情報・自分たちの共感しやすい情報だけをかき集めることは簡単にできる。買い物かごに入れれば、アルゴリズムが勧めてくる。
メディアがクリック数を稼ぐために書いた手に取りやすいニュースに飛び込み、その他大勢の群衆の中から、石を投げつける光景なんて日常茶飯事ってくらい見ている。

<伝えなければいけないこととは何か>

森達也監督が本作を作る上で絶対に外せない視点として、メディアがどんな役割を果たしていたかという点だったと言う。
ドキュメント作家として有名な森達也監督が手がけた作品は、常に「で、あなたはどう考える?」と個人に問いかけてくる。
とても心に突き刺さるし、心地良いものだ。
それはオウム真理教に密着した「A」や佐村河内氏の「FAKE」にも顕著に表れてると思う。
使い捨てられたメディアの残骸に入り込み、時に寄り添いながら、そこにある別の真実の側面を見せつけ揺さぶる。
真実を知らしめるべきともがき苦しむジャーナリズムと、共通の敵を作り団結させ全体主義を目指す権力の僕として、民衆を煽動するメディア。

今のメディアがどちらかといえば言わずものがなだろう。
BBCが動いたから、慌てて足並み揃えてジャニーズ叩きするのがこの国のジャーナリズムだし、SNSという村社会では、毎日大勢の人が燃えそうな家を見つけて火を付けたり、注目されるために自分で自分を燃やしている。(もう見たくないからX 旧:Twitterは基本ログアウトや)
結局のところ、自分自身の使い方の問題なのだ。

目の前に転がる死体の山を蹴りながら、どっかの誰かが垂らした釣り針を追いかけて、頭を使わずに仲良しこよしでお手手をつないで全体の中の一つとして生きていくか?
さまざまな選択肢と視点を持って、できる限りフェアでシニカルで残酷で優しくあろうとする我が道をゆくか?

答えは一つしかないわ、私は。
どうせどちらに進んでも落とし穴しかないし、それにみんなまだ一回目の人生で初心者なんだから、違和感を感じたら自分で考えて自分で選んで進めばイイ。
失敗だったら来世頑張ればいい。

今日この瞬間の私たちは今、スマホ片手に100年前の福田村事件発生前の延長線上にいる。
「で、あなたはどうする?」
Torichock

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