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福田村事件のambiorixのレビュー・感想・評価

福田村事件(2023年製作の映画)
3.6
俺は本作『福田村事件』のような、日本の歴史の汚点を描いた映画やネトウヨにとって不都合な史実を描いた映画、っていうのは基本的に大好物なのですが(最近のものでは『主戦場』)、しかしその一方で、「他の人が描きたがらない題材に挑んだから高評価だ!」といって、この種の作品を無条件に肯定してしまう流れにもいまいち乗れないでいる。主な支持者である左派の人たちは「右派に批判的な内容の映画が作られた」という地点で無邪気に満足してしまっていて、「日本史の負の部分と真摯に向き合うこと」という本来なら手段でしかないものを目的へとすり替えてしまっているように思えるからです。
ひいき目に見ても出来のよい映画ではなかったにもかかわらず、安倍政権に批判的な内容を描いたから、というだけの理由で不当に高い評価を受けた2019年の日本アカデミー賞作品『新聞記者』周りの状況がまさにそんな感じでした。当時の日本の映画界や映画ファンの中には、お隣の韓国が作った『パラサイト 半地下の家族』に対する社会派ドラマコンプレックスのようなものが間違いなくあったと思うのですが、あれと同じ空気を今の『福田村事件』フィーバーにも感じてしまうんですよね。
もちろん、日本人が同じ日本人を勘違いの末に虐殺した史実の映像化、なんてな企画が大衆ウケするはずがない。とくに日本の観客というのは、基本的にマンガ原作のアニメ映画かテレビドラマの続きものにしかお金を落とそうとしない。そんな絶望的な状況の中で、普通の日本人なら目を背けたくなるような事件の映画化を決断したプロデューサーや配給会社、そして監督の森達也には尊敬の念しかないのですが、それでもあくまで取り上げた題材の方ではなく映画の中身をこそ評価すべきです。
今述べたことにも通じるのですが、実話を映像化した作品を見るたびに感じることがあります。それは「映画がすごいんじゃなくて、単に起きた事件がすごいだけなのではないか?」という疑問です。本作でいうと、Wikipediaやなんかにも書いてある「関東大震災後に流れたデマを信じ込んだ人たちがなんの罪もない行商人15人のうち9人を虐殺した」という字面のもつインパクトがすごいのであって、肝心の映画はそれの単なる再現ドラマでしかないのではないか、なんてなことを考えてしまうわけです。観光ガイドに載っている名所の写真を見て感動し現地に行って感動の再確認をする、みたいな感じです。そして残念ながらこの映画は、完全にとまでは言わないものの、虚構が現実に負けてしまっているのではないか…と言わざるをえない箇所が多々あります。
たしかに本作『福田村事件』はすさまじい映画です。世界のどこにでもあるクソ田舎の小村で暮らすなんの変哲もない人々の日々の営みを通して、朝鮮人やヨソモノに対する差別意識を少しずつあぶり出し、クライマックスの虐殺シークェンスへと収斂させていく。その手管は見事といっていい。けれども、それもあくまで好意的に解釈すればの話であって、本編の半分以上の尺を占める日常パートで描かれるのが、誰と誰が不倫しただのあの子の父親は実は〜だのいう、男と女のセックスにまつわる話題がほとんどだ、というのはさすがにいただけない。そら大正時代の庶民なんて実際に仕事かセックスぐらいしかやることがなかったのかもしれない。それこそソシャゲとパチンコと抱いた女以外に会話の引き出しがない現代のブルーカラーみたいなもんですよね。なんだけど、ヘテロ的な性愛の描写を通してしか庶民の営みを描けないところにこの映画のどうしようもない貧しさを感じてしまった。あとこれは俺のオリジナルの視点ではないんですが、顔の造作が整っている登場人物ほど思想的にはリベラルな一方で、いたずらにヘイトを煽ったり実際に取り返しのつかない過ちを犯してしまう人物は水道橋博士を筆頭にほぼ全員ブサイク、というキャラクターの描き分けもけっこう気になってしまった。たぶん無意識のうちにやってるんでしょうが、めちゃくちゃ差別的じゃないですか?
あんまりメタクソ言ってる間に俺が『福田村事件』のアンチだと思われてはかなわんので、とりわけ印象に残ったシーンをひとつ挙げておきたいと思います。それは虐殺…ではなく、その一個手前の茶屋でもって福田村の住人サイドと行商人サイドがバチバチやり合うくだりです。この場面には、現代にも通じるエコーチェンバーの問題が凝縮されているからです。俺がエコーチェンバー現象においてもっとも怖いなと思うのは、似たような意見を浴び続けることで物の見方が徐々に偏っていってしまう、というのももちろんそうなんですが、それ以上に怖いのが「対立する相手の意見に耳を傾けようとしないこと」、および「自分の意見を撤回することができなくなること」だと思うんですよね。象徴的なのが水道橋博士演じる在郷軍人の長谷川です。行商人たちが自分は日本人だと言い続け、鑑札を見せ、朝鮮人ではないことを証明するテストを潜り抜けたにもかかわらず、彼は「いやさ、お前らは朝鮮人に違いない」と言って決して譲ろうとしない。ここでは実際に突きつけられた確固たるエビデンスよりも、彼がこれまでに培ってきた「村の平和を乱すよそ者は追放すべきだ」といったムラ社会的な思想や、「朝鮮人は日本人と比べて劣っている」といった愛国主義的な思想の方を優先してしまった結果、明らかに間違った意見の方を取り消すことができなくなっているわけです。そんなものにはデマ同様、なんの根拠もないのに。
翻ってわれわれの生きる現代に目を転じてみると、この身振りというのは、「誤解を与えて申し訳ない」かなんか言って自分のミステイクを絶対に認めようとしない、国民のことを心の底からなめ腐った政治家の態度と見事に重なるし、最近だとジャニーズの熱狂的なファンがこのパターンの典型例です。彼女/彼らも、「ジャニーズ事務所は偉大だ=それを応援する私たちも偉大だ」みたいな、自分たちにとって都合のいい情報だけをさんざっぱら摂取し続けてきたせいで、いざ事務所が不祥事を起こしたときに手のひらを返してジャニーズを批判することができなくなっている。その結果、ジャニー喜多川がしでかした性加害を擁護し、逆に性加害を告発した被害者の方を差別し誹謗中傷の言葉を投げつける、とかいう世にもおぞましい光景が現出してしまった。福田村と現代社会は地続きなのです。
本作の監督である森達也が2001年に製作した『A2』というドキュメンタリー映画があります。これは地下鉄サリン事件を起こしたあとに行き場をなくして散り散りになったオウム真理教の信者たちがどうなったのか、その顛末を丹念に追いかけた作品なのですが、作中にものすごいシーンがあるんですね。よそからやってきて住み着いたオウムの現役信者と信者を監視する地元の住民たちとが、監視し・監視される関係の中でしだいに共鳴し合い、最後はまるで友達のごとく和気藹々と会話を交わす仲になる、という奇跡のような光景が。俺はここに人間のコミュニケーションの究極形のようなものを見ました。しかしながら、かつては絶対に分かり合えない者同士の奇跡的な交歓をフィルムに収めてみせた森達也が、分かり合えるはずの者同士が巡り巡って破局していく物語を撮ってしまった。世界はどんどんアカン方向へと進んでいるんだろうか、そんなことを考えてしまいました。ゆえに本作『福田村事件』は、現職のレイシストや陰謀論者の人たちにこそぜひ見てもらいたいんだけど、残念ながらそういう層には届かないんだろうなあ…。
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