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福田村事件のcocoのネタバレレビュー・内容・結末

福田村事件(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

「嫌な時代だ」こんな安直な言葉では表現できない、目を背けることができない事実。今も人間は当時と何も変わっていないかもしれない。戦争という大きな憎悪から生まれた力のぶつかり合い。集団心理の歪み、多数決の効力、その恐ろしさ。

●映像、演出 全体的に音声のボリュームが大きくする演出されてた。人の息遣いから感情の機微を感じられた。その効果で、人の怒号や叫び、ため息、呼吸全てが感じ取れて、聞いてて苦しくなった。生身の人の声、殺される時の最後の声も全部聞き取れた。 最後、虐殺が行われるシーンで太鼓の音が使われていた。人の悪いところ、憎しみの感情を煽るように、またその感情そのものであるかのように表現する楽器だった。日本人として、太鼓の音に馴染みがあるからこそ感じられる、この楽器にしか成せない演出だった。人間の心理、疑いの気持ちが限界に達し、プツンと糸が切れるように殺しが始まる瞬間が、和太鼓で見事に表現されてた。

●日本語の標準語と「方言」との大きな違い 勘違いによる殺しが起きてしまった「方言」の違い。当時は、日本人同士の会話すらも、離れた地域同士では言葉が通じず、通訳が必要だったほどだそう。

●貞次が飼っていた馬 私の出身(信州)の地域でも馬を「アオ」と呼美、農業に使うために飼っていたらしい。祖父が言っていたのを思い出し余計、売られてしまったアオとアオを大切に育てていた貞次が可哀想だった。
人間関係が丁寧に描かれていて、田舎の閉鎖的な心理も分かりやすく理解できた。歴史上の出来事の羅列では感じられない、当時を生きた生身の人間同士の、欲をみた。女性たちの色恋の描写が多く、尚更そう感じた。
そして村人が「村八分に遇う」と口にし、逃げることを躊躇うシーンも印象的だった。無理矢理命令に従わされていた。作中所々で「村」に対する執着心を感じた。彼等は村という組織から逃げられない。

戦争は怖い。新聞やメディアによっていくつの事実が、語られず、葬り去られていったのか。これは戦争の時代だけでなく、現代にも共通して言える。この作品は、メディアの役割とその本質的な部分について問う話だと思った。これは現代にも言えるれけど、SNSなんてない時代は新聞などのマスメディアから得る情報が、国民が唯一他の場所の情報を得られる手段だった。だからこそ、情報操作で国民の考え方も、価値観の洗脳すらも容易に可能だった。関東大震災によってパニックが起こり、混乱が広がっていく様子を見て、人間の根本的な部分は100年経った今も変わってないと思った。SNSで平気で人を傷つける。他の国の人を、一括りにして差別をする。(自文化中心主義的)「戦争」ということへの意識はもっと個人の中にある事そのものだと思った。
少し話が逸れるけど、Youtubeの福田村事件に関する動画で、「こんなひどい事件が起きたこと、千葉県民として申し訳ない」というコメントがあったのを見た。福田村事件を、表面的に、ただ千葉県の一角で起きた事件として見るのはおかしいと思った。
飴売りの朝鮮人の女の子が、最後に自分の名前を叫んでいたところが忘れられない。彼女は最後まで自分の民族に誇りを持っていたはず。朝鮮人だということが分かった矢先、自警団は躊躇いもなく彼女を殺した。戦争により他民族への差別的な考え方は根深い。
国民は戦争の被害者だといわれるけど、疑いなく政府やメディアの情報を信じ、日本人以外を排除しようとする意識自体、間違いなく悪である。
 福田村で讃岐の行商人が、「鮮人だ」と騒ぎが起こった時、静子と智一が必死に事実を伝えようとしたが、その声は通るはずもなく掻き消された。このシーンの咲江の「一旦落ち着いて、みんなおかしいよ」ってセリフが印象的だった。それでも勢いの留まることない集団パニック。今の時代にもある、偏った価値観が生み出す少数者の排除。
 そして簡単に人の命を奪った自警団の秀吉が「家族を守らなくてはいけない」という自身の正義を理由に、虐殺の後、咄嗟に自身も被害者であるかのような発言をしていたのが信じられない。人の命を奪うということは、どんな理由があろうとも許されない。誰にでも命がある。集団心理は、歪んだ正義を作り出す。
事件後、生存者たちの針金を解くシーン薬売りの少年がなんで…と咽び泣く。最後、彼は生き残っって思っている人に再会できた。残された事実の未来を感じさせる演出に感じられた。
智一は、1919年、朝鮮で起こった日本人による朝鮮人の大量虐殺(堤岩里教会事件)を目撃したことからこの村の事件の結末が予測できていたが、死ぬ気で事実を伝えようとも、自警団を中心とした虐殺は免れられなかった。人は分かっていても同じ結果を繰り返してしまう生き物なのか。

●アナログな100年前の日本の生活
豆腐を一つ一つ手作りして売ったり、一から畑を耕したり、人の生活が当たり前だけど今と随分違うなと思った。消費社会と違ってある分だけ大切に使ってた時代。福田村事件から100年経った今、私たちの生活は当時と比べ、随分変化した。この映画の全ての要素が1923年の先を生きる「今の私たち」に問われる問題そのものだと感じた。彼らの生活の所作一つ一つから感じることがあった。
「朝鮮人だからって殺していいのか?」この言葉は、この映画の最大のテーマ。しかし、忘れてはいけないこの事件の真意。福田村事件は、戦後のわたしたちへの大きな問いかけだった。戦争から復興あと劇中の発言から、ひしひしと国民の持つ戦争による偏った価値観が感じられた。時代劇という枠を超えた、私達が目を逸らしてきた事実がこの映画の中にあった。歴史を越えた先に私達がいる事実に責任感を感じた。
 そしてこの映画を観終えたあと、感じ取ってた時の気持ちや感情が薄れてて、人間ってすぐ忘れていくんだと実感した。この映画を見た時の、気持ちは全て忘れたくない。
 また、戦後や戦時中について知っていくことについてすごく考えさせられた。なぜなら、中学や高校の授業内で学ぶ平和学習の内容は、日本人がされたこと、具体的には広島や長崎の話が中心になることが多い。しかし、日本だって罪のない人を殺した歴史上の事実がある。挙げたらキリがない。他の国だってそうだ。
 特に日本人は、タブーに触れることを恐れる。向き合うことが怖いのかもしれない。しかし「沈黙」は時に、何よりも悪になり得る。そんな日本人の戦争との向き合い方により事実が消えつつある今、この事件が映画として製作され、日本人の製作陣によって、多くの資料を用いて残されたことに大きな意味があると思った。この映画を観て、歴史上の事実を思い知らされた。簡単に忘れ去っていくべきではない歴史の存在。そして、戦争をするということの心理について気付かされた。パンフレットを読んだら、私が「日本人が嫌いだ」と感じた視点は、やっぱり監督達の意図だったと感じた。でもこれは、間違いなく過去の事実だ。

この映画は全ての人が観る責任があると感じた。
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