天馬トビオ

福田村事件の天馬トビオのレビュー・感想・評価

福田村事件(2023年製作の映画)
3.5
一つの「事件」には、ふつう、被害者と加害者が存在する。この二つの存在を合わせて当事者とも呼ぶ。

当事者という要素を、この「福田村事件」に限って当てはめてみるならば、前者は村を訪れて朝鮮人に間違えられて殺された行商人で、後者は虐殺犯の村人。この構図はわかりやすい(震災全体で見れば、朝鮮人や社会主義者が前者で、組織的に虐殺に関与した自警団や警察が後者になるのだろうが、ここでは映画に絞り込んで記していく)。

映画が問いかけるのは、当事者と対をなす傍観者の位置づけ。これは曖昧模糊としていてわかりにくい。職責に忠実に事件の公表を誓う積極的傍観者の新聞記者、閉鎖社会から抜け出したくても抜け出せない中途半端な傍観者の村長。彼らの役割は何となくわかるような気がするが、では来訪し澱んだ村にそこそこの波風を立てて、また再び流れ去っていく澤田夫妻はいったい何だったのだろう。

民俗学でいう来訪神、まれびと? 第三者の視点で事件全体を俯瞰する役割? 因習にとらわれた閉鎖社会を生きる村人に対する開明的なインテリ層? そもそも澤田夫妻には新聞記者や村長のような悩みや葛藤はあったのだろうか。何もしなかった、何もできなかった傍観者は加害者と何ら変わらない、という事実はのちの太平洋戦争下の一般国民につながる重要な問題として覚えておきたい。

そうしたなか、一番わかりやすい人物が水道橋博士演じる在郷軍人。インテリ澤田、デモクラシイ村長の二人と、幼馴染三角形の一点をなす彼は、短躯で近眼だからおそらく丙種合格で入営し、しごかれて軍人精神と差別思想を叩き込まれ、退役し帰郷後はその反動もあって、村人に対して本人が良かれと思う思想善導に躍起となる。こういう人間って、形を変えて現代にも生き続けている。

ここでもう一度、被害者と加害者の関係に戻って、この映画のもっとも言いたかったと思えるシーンを挙げてみたい。

事件の直接のきっかけとなった、最初に行商人リーダーの脳天に凶器を打ち込んだ女性の動機。亀戸に行ったきり帰らない夫の安否を気遣うあまり、「朝鮮人が暴動を起こして日本人を殺しまくっている」という流言飛語に惑わされたゆえの行動だったというやりきれなさ。彼女こそ、加害者であり、被害者に他ならないのだろう。
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