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機動戦士ガンダムSEED FREEDOMのtamashiiのネタバレレビュー・内容・結末

機動戦士ガンダムSEED FREEDOM(2024年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

ガンダムSEEDで青春を過ごしたド直球世代であり、十数年待ち侘びた新作劇場版。点数をつけられるような精神状態ではない。どんなに長くなるとしても、残らず語っておかねばならない。

⓪まずは本作に至る背景を思い出さねばならない。劇場版制作決定の告知は2006年に行われたが、その後、10年以上ほとんど何の音沙汰もなかったところ、2023年7月2日の『水星の魔女』最終回放映後に突如として新作劇場版公開が告知された。監督へのインタビューによれば、2021年にプロジェクトが再始動したとのことで(パンフレットより)、構想十数年の超大作として本作が作られたわけではないようだ。

ではなぜこれほど制作が遅れたのかといえば、ガンダムSEEDのシリーズ構成を務めてきた両澤さんのことがあると思われる。シリーズ構成の両澤千晶さんはDESTINYの制作時点で体調の問題があったそうなのだが、2016年に亡くなられた。しかし、両澤さんは本作でも後藤リウ・福田己津央と共に脚本家としてクレジットされている。ガンダムSEEDの世界観やテイストを大きく形作った両澤さんがこの世を去った後、福田監督は亡くなった妻の思いを背負って本作を完成させたということになる。こうした背景を考えると、公開の遅れを責める気にはなれず、有耶無耶にされても仕方がなかったファンの希望にきちんと応えてくれたことに本当に感謝したい。


①比較的どうでもいい話から。劇場版の時代設定はDESTINYの2年後のC.E.75であり、主要キャラの年齢は下記のとおりである(パンフレットより)。

キラ・ヤマト准将 19歳
ラクス・クライン総裁 20歳
マリュー・ラミアス大佐 29歳
ムウ・ラ・フラガ大佐 31歳
シン・アスカ大尉 17歳
ルナマリア・ホーク中尉 18歳
イザーク・ジュール中佐 20歳
ディアッカ・エルスマン大尉 21歳
オルフェ・ラム・タオ宰相 20歳
アウラ・マハ・ハイバル女王 50歳(CV: 田村ゆかり)

......アウラのキャスティングに悪意あるやろ!? というのは冗談として(ゆかりんのロリババアキャラは全て国宝だ)、改めて見ると主要メンバーの年齢は非常に若い。もちろん、ガンダムシリーズは戦争に巻き込まれる少年少女をずっと描いてきたのだから、このくらいの年齢設定がガンダムシリーズの中で特に若いというわけではない(何なら最近の傾向からするとむしろやや高め)。しかし、キラやラクスがまだ二十歳そこそこだというのは、性格やキャラデザのせいか、つい忘れてしまいがちに思える。二人ともえらく達観していて、相対的に劇中ではシンがやや幼く見えるのだが、むしろシンの方が年相応だ。我々はキラやラクスに完璧さを求めてしまいがちなのだが、それはそうさせる物語構成や演出のせいであって、そもそも現代的な感覚ではまだ子供と言ってもいいような年齢だということを思い出すと、色々な尊みが増してくる。


②主要キャラの内、劇場版で最も異彩を放っていたのは間違いなくアスラン・ザラである。全然出てこないと思ったら最強はアスランと敵から謎評価されたり(どこ情報だよ)、赤いズゴック(ガンダム隠すのに絶対向いてないフォルムだしその目的なら赤くするな!)で突如として援軍に駆けつけ、うじうじするキラに喝を入れたり、カガリとはもうやることやってますと仄めかしながら敵を撃破する(あれを笑わない古参はまずいない)という、DESTINY時代のヘタレ裏切りアスランを完全に過去のものとして、成熟した余裕ある大人の男アピールが凄まじい。公私共にキラの一歩先を行ってますと言わんばかりである。

これは単なるギャグではなく、物語的にも重要なポイントである。キラはまだまだ子供なのだ。SEED時代前半ではムウやマリューといった大人がキラを守っていたが、キラがアークエンジェルの危機を救って以降は仲間を助ける立場にいることが強調され始め、DESTINY時代には達観したフリをしながら世界全体を救おうとさえする。いわば純朴な子供から混迷する世界の指導者へと急激に立場を変えようとして、その歪みが劇場版でのキラの悩みをもたらしている。キラもラクスも、非常に無垢な願いを抱いており(それが弱点であると同時に良さでもあるのだが)、それが簡単に実現するほどSEED世界は甘くはなく、二人は辛い現実にうちのめされそうになる。そんなキラの一歩先を歩いて導いてくれる存在が、昔から何かとキラを心配して兄貴ムーブをかましていたアスランその人だったというわけだ。劇場版でのキラとアスランの関係はDESTINYと逆になっていて、DESTINYではラクスとラブラブアピールが激しいキラが雲の上の聖人かのようにアスランに助言を与えていた。つまり、キラとアスランは相補的な関係なのであり、一方が歩みを止めた時、他方が一歩先から手を差し伸べるのである。


③ガンダムSEEDシリーズは人間関係の描写に魅力があり(というかガンダムはいつもそうだが)、戦闘や外交もカップル関係の変化の表現として解釈できたりして、多くのファンが◯◯カプ厨としてそれぞれの夢を投影した黒歴史を刻んできた。キララク、アスカガ、シンルナなどを扱ったガンダムSEED同人は相当な数が存在していたはずだ(もちろん、キラアス、イザディアなどの組み合わせも...)。ファーストガンダムの展開をなぞりつつもカップル要素を多分に盛り込んで恋愛ドラマ色を強めたところにSEEDの独自性がある。

さて、劇場版の前半ではNTR的な要素が多分にあり、ファウンデーションと共にキララクカプ厨の脳が焼き払われることになる。新キャラのアグネスについて、CVの桑島さんは福田監督から「フレイを想起させるキャラクター」だとディレクションされたとのこと(パンフレットより)。アグネスのキャラデザやCVで十分わかりやすいのだが、美人だが性格がキツく、人を傷つけるような差別的なことも言ってしまうあたりが、確かにフレイを思い出させる。そんなアグネスが、キラにちょっかいをかけ、ラクスの妨害をしまくる前半は、さながら元カノが今カノを押し退けて復縁を迫るかのようだ。さらに、やはり新キャラのタオがラクスにちょっかいをかけて、キラの邪魔をし、洗脳調教でぐへへしながら増量されたラクスのおっぱい揉んだりしてカプ厨に絶対呪われるだろと思ったら案の定爆散した。キララクを阻む者には鉄槌を。それがSEED世界の運命である。

キラとフレイの関係を一応確認しておくと、SEED無印の前半までキラはフレイ・アルスターのことが好きだったのだが、サイ・アーガイルに比べて冴えない男だったので(今こう書くと笑えてしまうのだが)、フレイはキラのことを「サイのお友達」だとしか認識していなかった。そんなキラが戦火に巻き込まれて戦士としての才能を発揮すると、キラは戦いに追われ精神的に追い詰められていき、逆にサイは劣等感に悩むようになり、さらにフレイは自分の父を守りきれなかったキラを憎むようになって、復讐としてキラを支配しようと目論み肉体関係を持つに至った。フレイと関係を持つ以前にキラはラクスと既に出会っていて、ラクスをアスランに引き渡すまでの間に少し良い感じの雰囲気になっていたので、キララクは互いに淡い思いを抱き始めていたわけだが、その時点でキラがアスランの許嫁だったラクスに恋をしたとは考えにくく、キラはやはりフレイを結構しっかり好きだったはずで、その真剣な感情をフレイは明確な悪意で利用しキラを戦争に引き摺り込んだ。キラとフレイの爛れた関係が事実としてあったからこそ、SEED無印最終戦でキラとフレイが和解することが重要な意味を持つ。つまり、認めざるを得ないことは、キラの初めての相手がラクスではないということである(気持ちの上でも、肉体的にも)。これはもうキララク勢がどれほど妄想を膨らませようと決定的に変えられない史実である。

だが、キラは何やかんやあってラクス様の圧倒的バブみに癒され、フレイへの気持ちは「昔の女」へと変わっていき、幼馴染の許嫁に本気で惹かれていく。初期のラクスは何だかすごくほわほわしていて(SEED当時16歳)、あまり貞操観念も無さそうな感じでアスランってああそんな人もいましたわね、でもキラ様優しくて好きですわーってな感じでやはり恋に落ちていく。ラウ・ル・クルーゼを倒した後は二人で一緒に子供に囲まれながら暮らしていたりして、え、どこまで行ってるんですか恋人として生じるであろうイベントは当然発生してますよね、「初体験は君じゃないんだ、ごめん」「謝る必要なんてありませんわ」とかそんな生々しくも尊い会話があったのかな、とか考えている間にアスランはアスランでキラの知られざる姉とイチャコラするようになっていて、なんか近しい間柄のうちでそれぞれ上手いこと落ち着いてよかったよかった。...というのがDESTINY前半あたりまでのことである。もしもこの要約に悪意を感じるとすれば誤解だ。私は心の底からキララク推しである。ちなみにアスランについてはメイリンとのカプの可能性も認める和平派であり、アスカガ原理主義とは敵対関係にある。

結局のところ、本作は圧倒的キララクであり、公式が最大手であって、前半で焼かれたキララク厨の脳は後半で一気に再生・成長・進化を遂げることになる。アグネスとタオのいやらしいちょっかいにも屈せず、本作でキラとラクスは互いに互いを愛していると連呼し、「必要だから愛するのではなく、愛するから必要なのだ」という名言と共に、「エンゲージ」するにまで至る。二人はこれまで明確に結婚していると表現されたことはなかったが、両親との顔合わせも済んでるし、本作では二人きりで同棲している事実も明らかにされ、実質的にはもはや結婚しているのであり、他のカップリングなどありえない(喧嘩腰)。コーディネーターは子供が非常にできにくいらしいから、二人の間に血のつながった子供はできないかもしれないが、そんなことは本当に些細なことである。キラとラクスの尊い関係性が続くこと自体にファンは涙を流すのである。


④SEED無印の後半以降、ラクスとキラの関係は、端的に言えば、人々を導く「姫」とその姫を守る「騎士」というものになった。その関係から紡ぎ出される物語のお決まりのパターンは、二人の間にどんな障害が立ちはだかろうと決して壊れることのない愛が存在することを示すというもので、まさに劇場版はそういう物語である。とはいえ、二人が愛し合っているということ自体は、劇場版だけ見てもそれほど伝わらないかもしれない。SEED放映当時からの古参ファンは記憶と妄想を掘り起こして控えめな二人の描写からしみじみと尊みを実感できるが(キララクは二人とも穏やかな性格だから愛情表現は控えめなら控えめなほど良いんだよね......)、それは既に古参が二人の愛情を確固たるものだと確信しているからである。そこの確信具合が物語の感じ方に大きく関わるため、劇場版は間違いなくこれまでの紆余曲折を知っているファン向けである。

また、「姫」と「騎士」というキララクの関係は多分にファンタジー的であり、リアルな現代社会から抽出されたものでは全くない。二人とも非常に高貴な血を引いており、類まれなる能力を持ち、社会的地位も非常に高い。二人は庶民性とはまるで無縁ではあるものの、大衆を下に観たり差別したりすることに抗っており、貴族としてノブレス・オブリージュ的な責任を果たそうとしていると言ってもいいかもしれない。そんな高貴な方々の尊い愛を現実世界の大衆である我々は崇め奉っているのである。皇族の恋愛模様をそっと見守る感覚に近いかもしれないが、もちろん、現実の我々はそれですら非常に汚れた視点と言葉を持つことがあり、下世話なネタが炎上してしまうことがしばしばだ。現実世界にキラもラクスもいないが、人々が些細な違いでどうしようもなく争い合ってしまうという点では現実とSEED世界は完全にリンクしている。

恋愛要素はSEEDシリーズに欠かせないと私は思う。恋愛という個人間の関係が、戦争に満ち満ちたSEED世界を変えていく鍵として描かれているからだ。キラとラクスが周囲に敷かれたレールを壊してでも愛し合うようになったということが、劇場版の中心的なメッセージの説得力につながっている。ある意味、自由の下で人々が争っていたからこそ、二人は出会い、恋に落ちることができた。そんな二人が、世界が自由であり続けることを肯定したいと言っているのである。

だが、そんな考えは許されるのか。高度に発展した大量殺戮兵器がボンボン使われまくる恐怖の世界にあって、ラクスとキラという非常に特殊な立場にいる者達が秩序より自由が大事だなどと言っていていいのか? ガンダムSEEDの「恋愛脳」的な物語は、戦争をめぐるシリアスな政治的議論に接続できるのか? それを考える前に、ラクスという人物がいかなる存在かを振り返っておく必要がある。


⑤本作の最も重要なポイントは、ラクスとタオが全てのコーディネーターを統べる存在として生み出された「アコード」だったという新設定が明かされたことである。これはガンダムSEEDシリーズの物語を根本的に再解釈させるかもしれないほどの大事件である。なぜラクスはプラントのアイドルだったのか。なぜラクスはデュランダルに狙われていたのか。なぜミーアではダメだったのか。アコードの設定から考えると、あれもこれもラクスがコーディネーターの頂点に立つべき特別な存在として作られていたからだということになる。とすると、ラクスがこれまで自分の意思で成し遂げたと言えることは一体どれほどあるのだろうか?

SEED無印以来、「力」と「意思」という二つの要素は物語上の重要なポイントだった。「想いだけでも、力だけでも駄目なのです」というラクスの名言の他にも、例えば、無印第12話「フレイの選択」にて、こんな印象深い会話がある。
ハルバートン提督「たしかに魅力だ、君の力は。軍にはな。だが、君がいれば勝てるというものでもない。戦争はな。自惚れるな」
キラ「でも、できるだけの力があるなら、できることをしろと」
ハルバートン提督「その意思があるならだ。意思がない者には、何もやり抜くことはできんよ」
......DESTINY時代のアスランにぜひ聞かせてやりたいものだ。

さて、「力」と「意思」の両方が必要だという物語上のポイントを押さえつつ、ラクス・クラインというキャラクターがどう描かれてきたのか振り返ってみると、ピンク色の髪に白を基調とした衣装というザ・お姫様的なキャラデザに加え、ほわほわとした物腰と口調で世間知らずの箱庭育ち的な印象を与える一方で、「追悼団の慰霊を血で染めるのか」と巧みに戦闘を諌める知性も持つなど、ラウ・ル・クルーゼをして「厄介な存在」と言わしめるほどの政治手腕を持つという、外見と内面の著しいギャップが彼女の魅力だった。彼女には見るからに戦う力はないが、その非力な身体で必死に平和を謳い、その理念に賛同した者たちが世界平和を築くために力を貸してきた。ラクスには世界に平和をもたらす意思があれど、力を欠いており、だからこそキラはラクスを支える最強の力になろうとする。そうして「姫」と「騎士」の物語が成り立つ。

だが、ラクスが「アコード」だという新たな設定は、以上のような単純な捉え方の物語に疑念を引き起こす。非常に残酷な話だが、ラクスは自身の願いを叶えるために「歌や対話を通じて平和を訴える」という方法にこだわってきたのに、それは困難な道を意志の力で乗り越えるという類のことではなく、自身に備えられた能力を最も有効に活用して人々に一つの思想を強制するものでしかなかったのかもしれない。キラやアスランを含め、ラクスの元に集った人々は、各自の「意思」で選んだのではなく、ラクスの「力」によって従えられただけかもしれない。それは、彼女が否定しようとしたデュランダルのデスティニープランとどれほどの違いがあるのだろうか。また、ミーアが身を挺してラクスを救ったのは、ミーア自身の意思ではなく、ラクスの「力」のせいだったらどうだろうか。ラクスが持つアコードの能力がどれほどのものかは明かされておらず、これまでラクスがそのような力を行使した明確な描写はないが、無意識的に影響が生じるようなパターンの方がむしろ恐ろしい。ラクスが人々の自由な意思を尊重しようとすればするほど、「上から与えられた自由の観念」が押し付けられ、「自由のない秩序を望む自由」が強制的に奪われてしまうわけで、彼女のエゴの押し付けになってしまう。ラクスはそのような自由のあり方にどう向き合うのか。

この新設定を踏まえて過去作を見直すと明らかに意味が変わってくる場面の例は、SEED無印第8話「敵軍の歌姫」のワンシーンである。アークエンジェルに囚われたラクスが《静かな夜に》を歌い、それを聴いたサイが「綺麗な声だなあ。でもやっぱ、それも遺伝子いじってそうだって思うんだろうなあ」と呟く。なんと、サイの読みは当たっていたのだ。流石はフレイがかつて好意を寄せた男。女性をよく見ているのだろう。余談だが、ラクスをアークエンジェルから逃す際のサイのエスコートが非常に手慣れていて、キラの陰キャムーブに比べると明らかにモテそうな気配を出していることを確認して欲しい。


⑥ラクスの新しい能力もあって、劇場版で改めて提示されるラクスとキラの政治的主張は、非常に悩ましいものになる。やや悪意のある表現を使えば、非常に古風なリベラル的価値観のエリートが、その強すぎる力を行使して、世界を改革するための新しくも危険なアイデアを潰そうとしている。全然自由を擁護していないじゃないか!

DESTINY以降、キラやラクスといったコーディネーターの中でも特に優れた者たちが、争いの絶えない愚か者たちの世界を何とか救ってあげるべく、世界を相手にして孤軍奮闘しているわけだが、世界を相手にして戦えてしまうほどこの少数者たちには圧倒的な力があるし、このような圧倒的な力を振るう戦いを「正しい」ものとして描くためには、「正しくない」争いが蔓延する世界が前提として存在していなければならず、簡単に争いが終わるならそもそもキラ達が苦しい戦いに身を投じる必要性も説得力も無くなってしまう。言ってしまえば、平和を望む一部のエリートと、愚かに戦争を続ける残りの世界という構図がSEED世界の根底に据えられてしまっている。

もちろん、現実でだってSEED世界でだって、戦争を無くすべきだと誰もが思っているはずだ。しかし、戦争を根絶するために、自由を犠牲にするべきではないとキラやラクスは言う。そして、自由な社会で争わずにいることがなぜこんなに難しいのかとも、二人は言う。けれどそれは、二人のように地位も能力も恵まれ、衣食住に困らない暮らしを既に手に入れているから、その難しさがわからないだけではないか? 例えば、同じガンダムシリーズでも『鉄血のオルフェンズ』では持たざる者達が戦乱を懸命に生き抜く物語が描かれている。鉄華団には安全圏から世界の平和と自由の擁護を訴えるだけの人間の言葉など全く響かないだろう。今日明日の命を繋ぐために必死に生きている者達にとって、まさに生きることが争いなのであり、争わずにいることが簡単に思える人生なんて手の届く範囲にはない。鉄華団から見ればラクスやキラは明らかに「持てる側」のエリートで、敵対する世界の一部にさえ見えるかもしれない。

とはいえ、SEED世界において少数のエリートに注目することには、別の意味での必然性もある。そもそも、SEED無印の冒頭に描かれたのは、人種問題をベースにした戦争によって、非常に親しい間柄だった友人たちが引き裂かれてしまうという悲劇だった。キラもアスランも互いの陣営のエースでありながら、幼い頃からの友達同士であり、互いに戦いたくないと願っていた。アークエンジェル内でのキラやサイやフレイの諍いも、非常に個人的な関係の上で展開された。壮大な背景を持ちながらも、SEEDシリーズの物語は非常に個人的な絆を中心にしてきたと言える。この個人的な繋がりの間で許したり愛したりすることこそが平和の鍵だというのが、劇場版でキラやラクスが改めて見出した答えなのだろう。そこにはちゃんと脚本的な辻褄が読み取れるのである。

だが、そんな繋がりで平和をもたらそうなんてかなりユートピア的で、まず実現できそうにはないし、その個人的な絆の及ぶ範囲だって結局のところ一部のエリートに限られるのではないか。劇場版でアスランは「仲間を頼れ」とキラに言うが、キラが頼れる仲間なんてあの世界で一体どれほどの人数いるのだろうか。数人か、数十人か、数百人か。少なくとも、キラが仲間と言えるような人が大して多くはないからこそ、キラやラクスは尊い理想を掲げて「正しい」戦いを遂行していると言える。つまり「仲間を頼れ」とは、せいぜい崇高な理念に賛同できるエリート集団で世界を相手に戦おうということにしかならない。ガンダムSEEDに魅力を感じるような人はこのエリート集団側に感情移入できるし、逆に気持ち悪いと思う人はエリート集団を外から眺める視点を持っているのではないか。

ラクス達が是認する自由の範囲をどれほど認めるかという難題も残っている。奇しくも、同日に上映開始した『哀れなるものたち』も人間の自由を描いた一作である。そこに描かれた主人公ベラの自由に比べれば、キラやラクスの言う自由の何と薄っぺらいことか。結局、彼らはまだ二十歳そこそこの子供であり、広い世界のことを知らず、どうすればその世界を改善し「進歩」をもたらせるかもわからないままなのである。


⑦声を大にして言いたいのは、主人公側の政治的メッセージが稚拙だとしても、平和への願いを率直に描くことは今の現実にとって重要な意味を持つと思うし、政治的メッセージ以外で面白い要素もたくさんあるので劇場版の意義は決して失われない。特にラクスの新設定は色々な考察を誘う。アコードであることを知って、ラクスは今後深く傷つき、孤独と悲しみを抱えることになるだろうから、ラクスを中心に据えて彼女の救いを描く次回作をぜひ作って欲しい。実際、劇場版で回収されていないフラグもあって、戦火をばら撒いていたとされるミケールが結局どうなったのか不明である。今回聴けなかったラクスの歌を題材に、女性の自由や同性愛といった現代的テーマも掘り下げながら、SEED世界をさらに展開して欲しいものだ。


追記 レオナード・バルウェイって誰やねん
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