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正欲のumisodachiのネタバレレビュー・内容・結末

正欲(2023年製作の映画)
2.9

このレビューはネタバレを含みます



朝井リョウ原作。

小学生の息子が登校拒否になった検事の寺井、ある秘密を抱えて孤独に生きている夏月、その中学校の同級生である佳道、男性恐怖症の八重子と彼女の興味を強く惹く同級生・大也。生きづらさを抱える人々を巡る物語。

【ネタバレしています】















水フェチという特殊な性的嗜好、登校拒否になりYou Tubeにのめりこむ子どもとその母親、男性恐怖症の少女と孤独な少年という、いずれも<生きづらさを抱えている>人たちを描いているわけだが、焦点がまったく定まっていない映画だという印象だった。

水フェチに関しては、彼らの苦しみの解像度をもっと上げてほしかった。水という性的対象を持っていること自体に耐えられないのか、「普通の生活」(それが異性愛と結婚のみを前提としているっぽかったのにも違和感)を送ることが望めないから絶望しているのか、水に性的魅力を感じていることを表明できず、したとしても間違いなく周囲に認めてもらえないから苦しいのか、どれなの?全部なの?

彼らは性的対象である水にアクセスすることは可能であり、異性愛以外の社会的生活はできている。異性愛者であっても、一生相手に巡り合えないパターンだってこの世にはたくさんあるわけで……だとすると、おそらく「水にしか魅力を感じない自分自身を受け入れられないし、そのことを誰にも知られていないこと、仮に知られたら間違いなく異常だと思われることが辛い」ということなんだよね?であれば、そこをもっと詳細に描くべきなのはないかと思うし、その暫定的な解決策を「異性との結婚」に設定するのは悪手なのではないだろうか?

「自分自身を受け入れられない、自分自身が絶対に受け入れてもらえない」ことが夏月の絶望なのだとすれば、佳道にストーキング行為をして怒りをぶつけたことは、「理解してもらえると思っていた相手が、そうではなかった=やっぱり私は孤独」という動機なのだろうが、大枠を異性愛的な配置にしてしまったせいで、あれでは異性愛に基づく嫉妬に見えかねない。実際にああいった性的嗜好を抱えて苦しんでいる人々が、異性を愛せないということにも苦しんでいるのだとすると、異性愛的な枠組みに一見でも回収されてしまうことに心地悪さを感じる可能性があるとは考えなかったのだろうか?

少なくとも、「理解者を得、結婚することによって社会で居場所を見つける」という解決策は、私の目には少し乱暴に見えた。理解者を得て分かち合うことが重要、というメッセージ自体には説得力があるが、異性愛的枠組みや結婚を敢えて提示することはないのでは?傷つく人、いるのでは?というのが正直な感想だ。

登校拒否の子どもを持つ寺井についても、疑問。彼は「普通」を振りかざす偏狭な人間という描かれ方をしているが、果たしてそうなのか?多様性を受け入れるというのは、なにも「相手を完全に理解する」ことだけを指すのではないだろう。あなたと私は違う、という絶対的な認識があっても、それを尊重して存在することを受け入れるのが「多様性を認める」ということなのではないかと私は考えている。寺井は、聞かれたら相手を否定することを言ってしまうし、そうやって否定することは相手を傷つける。でも、行動としては息子を無理やり学校に引っ張っていくこともしないし、You Tubeも黙認しているし、自分が留守の間に若い男が上がり込んでいることも許している(丁寧に見送りまでしてるし)。だからといって息子に無関心というわけでもない。

大学で大也が「自分の意思を曲げてやりたくないことをするのが多様性とは思わない」と発言するが、この表明に寺井の行動を照らし合わせると、「自分の意思を曲げて賛成することはできないが、とはいえ行動を止めることはなく尊重はする」ということになるだろう。なので、寺井という存在が、本作の中でどう位置付けられているのかが私にはよくわからなかった。「理解を示さないことが悪」なの?それとも、寺井が何を言っても「あなたは全てに反対して私たちを制止しようとする」と思い込んで対話をしない母親が偏狭なの(他のシーンで「思うことは自由」みたいなセリフがあったけど、あの母親は父親が心の底から賛同しないことに怒っていたよね)そのどちらもなの?

大也の発言があったから、私は寺井は奥行きのある人物だと受け取ったが、そう受け取る人は多くはないのではないだろうか。彼は「普通」を振りかざすわからずや=多くのマジョリティだと単純に捉えられる可能性がけっこう高いよね。

大学生パートは唯一疑問を持たなかったのだが、いかんせん分量が少なく消化不良。「男性恐怖症だが特定の異性には性的関心を持ってしまう」という苦しみや、それを演じた東野綺香の演技の解像度は非常に高かったと思う。「違いを認めて、相手を尊重する」というベクトルだったのもあって、何も引っかからなかった。ただ、ここも異性愛ベースなので、水フェチパートも異性愛ベースに引っ張られちゃうという弊害はあったかな。あと、結果的にダイバーシティフェスとやらで披露されたあのダンス、どの辺が「多様性」を表してるのかさっぱりだった。

全体的な違和感は、本作が「理解してあげる側」もしくは「理解を示さない側」として存在していること。そのスタンス自体は『月』と同じなのだが、『月』は「理解してあげる側」の欺瞞や罪を徹底的に突き刺してくる構成になっていた。「理解する側」としての観客が、無傷ではいられない映画だったし、作る人間たちも血を流しながら語っているように感じた。それに対して本作は、「”彼ら”は可哀そうでしょ?寺井みたいな”普通の人”が”彼ら”を傷つけてるってわかった?理解してあげないとね。私たちみたいに。”答え風”のものをテキトーに散りばめておくから、自分で結論出してね」と言っているように見えたといえばいいのかな。

また、「どんなフェチでもいいけど、小児性愛のように他者を傷つけるものはダメ」という要素をとってつけたように最後に示したのもズルいと感じてしまった。最初の疑問にも通じるのだが、異性愛ではない性的嗜好と生きづらさをテーマにするなら、ちゃんと掘り下げてくれないと。なぜ「誰かを傷つけるものはダメ」という結論に至ったのかについて、もっと全力でぶつかってくれよ。

フェチって辛そうだね。結局なにが辛いのかはハッキリはわからないけど、辛いのはわかってあげないとねー。あ、でも犯罪はダメだけどねもちろん!みたいなヌルいテンションで描いていいテーマだとは私は思えない。
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