2時間ずっと泣いていた。
画面を見ながら自分を重ねて。
自分の異常に気づいた小学生の時からずっとずっと閉ざしてきた扉が開かれて、内側からすべてが溢れ出した。
一生ひとりで生きていくなんて決めておきながら、ちゃんと心はぼろぼろだった。
自分の根っことはじめてちゃんと向き合って、
痛みと絶望でぐちゃぐちゃになった。
原作を読み込んで読み込んで映画を観たので、新鮮味は全くない。だが、文字からと映像からでは、受け取るものは全く違った。
原作を読んでいた時に最も感じたのは自己理解の深まりだった。登場人物と自分の立場・思考が限りなく近いことへの安心と、共感と、自己理解の深まり。なので泣かなかったし、むしろ自分の置かれている状況をはっきりと言葉にしてくれる登場人物たちに感謝して何度も読み直した。
でも映画は違った。映画では登場人物たちの思考は、そこまで語られない。鬱屈した目線や、態度で表現される。そして、それがリアルなのだ。彼らは自分の熟成した思考を外に放出する場を持たないし、むしろ周囲を拒絶する。それが、私を虚しくさせた。周りと線を引いて、自分は違うと勝手に奢って。私もそういう人間だから。
そして何より、映像で見るとこの作品は、非常にドラマチックで綺麗なのだ。
それが私をどん底に突き落とす。
現実はこんなにドラマチックではない。
この映画よりもずっと淡々としていて、グロテスクだ。
私は2時間のあいだずっと、自分の卑屈さと、置かれた現実の醜さに向き合わねばならなかった。
自分の芯を分かち合える人と出会えなければ?
一生ひとりだ。
彼らが水ではなく小児を愛するなら?
その孤独は映画の比ではない。
この映画は綺麗すぎる。
同時に、私の欲は盾にもなると思う。
私の「好き」は探せばどこにでもある。
それ自体は自分以外から見ればただの道端に落ちている石っころのようなもので、私の身体を通すことで宝石になる。その輝きを前にすると、私は体の芯から心地良さを感じる。それだけあれば生きていけると思える。
誰にも言わないし、言えない。だから誰も手を出せない。
誰かの好きと比べることもないし、比べられない。だって土台が違うから。そして裏切られない。相手は命を持たないから。その価値は全て私の思い通りである。
私だけが輝きを持たせられる無数の石。
それらを完全にひとりじめできるのだ。
これは、SNSの発展によって常に比較を強要されるこの時代においては自分を守る盾となり、非常に贅沢なことだと思うのである。
この考えは、私の「好き」が人間を巻き込まないから可能なのだが。