くまちゃん

正欲のくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

正欲(2023年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

佐々木はこの世を厭世的な目で見ている。世の中に溢れている情報は明日死ぬつもりのない人のためであり、そこに自分は当てはまらない。そんな折スマホの着信があった。親が事故にあったという警察からの連絡だった。家族との突然の別れ。悲しい、寂しい、だがそれよりも安堵感の方が大きい。佐々木が冷たい人間だからではない。自分が変わった人間であることを知られないまま死別できたことはある意味幸福なのかもしれなかった。余計な心配をさせることもなければ実の親に奇異な目を向けられることもなかったのだから。その後地元へ戻り、同級生の結婚式に参列した。
社会に迎合するために異性との交際を試みるも心は動かない。自分に普通の恋愛は無理なのだと再確認するとともに、この世界に自分の居場所はないのだと再認識させられる。そして彼は死を望む。

佐々木だけではない。桐生もまた孤独の水底に沈んでいた。桐生は他者との間に壁を隔てている。それは分厚くとてつもなく固い。職場の同僚や同級生、家族さえも乗り越えることは容易でない。水に対する不思議な欲情とは裏腹に自分に対しては無頓着。帰宅後電気も点けずに自室へ直行し、朝食はこぼれ落ちた納豆の粒を拾おうともしない。横着ではなく視界に入っていないのかもしれない。自分という他人を俯瞰で見ることで社会との断絶を試みているように見える。己の殻に籠城することは桐生にとって自分なりの心の折り合いをつける術なのだろう。寝具売り場で働く桐生には気にかけ話しかけてくれる同僚がいる。仲がいいわけではない。相手から見れば社交性もなく恋人もいない婚期遅れの哀れな桐生に話しかけてやってるという上から目線の同情。それは余計なお世話でしかない。
そんな時偶然にも西山と再開する。いや、大型商業施設の寝具売り場で働いていれば知り合いに遭遇する可能性は比較的高く必然と言えるかもしれない。
西山の話によれば同級生の結婚式に参列してほしいとのことだ。西山と西山の妻桐生、そして佐々木は同級生である。話しかけられ、誘われている時の桐生の顔。いくらか気を遣ってはいるがどうしても抑えきれない不快感や嫌悪感が滲み出ているその表情。新垣結衣のパブリックイメージからかけ離れたその態度は別人と錯覚してしまうほど。

結婚式を経て、桐生と佐々木は再開する。

2人を繋ぐのは学生時代の刹那的な記憶。佐々木は取り壊し予定の水飲み場を故意に破壊し、配管から放出された水の躍動を全身に浴びた。桐生もそこへ立会い、同様に水の中に一種のオーガズムを見出していた。この水浴びは2人にとっての初体験であり、忘れられない一瞬となった。佐々木はその後、転校した。

寺井は保守的で前時代的な価値観を有している。その思想故か、検事という職業故か、いずれにせよ少し堅苦しい印象を受ける。不登校気味な息子は不登校YouTuberにハマり、自身とその姿を重ねる。社会との関わりを断つと人は後ろめたさを感じやすい。家族に迷惑をかけている、嫌な事から逃げている、自分は何もできない、最低なやつだと。そんな時境遇を分かち合える存在がいたらどうだろう。締め切った窓の僅かなカーテンの隙間から真っ直ぐな光明がさすかのように、自分の人生を肯定されたと考えるだろう。特に子供にとって学校はコミュニティの大部分を占める。学校で起きていることは「普通」であり、そこからはずれたものは「異常」なのだ。少なくとも寺井はそう考えている。息子や妻に対する言動は今の時代にはそぐわない。家族を愛している。息子を大切に思っている。だからこそ学校に行き、勉強し、友人と遊び、普通を謳歌してもらいたい。だがそこに馴染めないものはどうすればいい。その結果反社会的な行動や自死の選択に至る人は数多い。寺井は検事という立場において社会や犯罪の多面的な側面を嫌と言うほど目の当たりにしているはずだ。それなのに古い価値観で視野狭窄に陥ってるというのは彼の人間性を指し示すのに十分だろう。規範から外れたものは「バグ」だと決めつけ、息子のYouTuber活動にも否定的、水を見るのが好きだという被疑者に対して激昂する一幕もその性格の顕れである。取り調べによって事件の真相を明らかにする。だがそれは寺井にとってはパズルを組み立て事実を浮き彫りにする作業にほかならない。被疑者がどんな環境で育ち、反抗当時どんな心理状態だったのかなど考えない。なぜならそれは「バグ」であり、「普通」ではない存在だから。そもそも理解などできるはずがない。共生などできるわけがない。
そして寺井は全てを失った。

諸橋は大学でのダンスサークルで活動し、キッチンカーでバイトをしている。
学内コンテストでは準ミスターに選ばれるほど外見も華がある。誰が見ても勝ち組だがそれは客観的な視点であって本人は深い孤独を背負っている。誰にも理解されないだろう。半ば世界を諦めかけている。その虚空に根ざす双眸は何を見つめているのか。彼は佐々木との繋がりに希望を見出すが、心を少しだけ後押ししたのは神戸である。神戸は学内でダイバーシティイベントを主催する実行委員である。過去のトラウマによって男性恐怖症になった彼女は近くに男性がいるだけで過呼吸をおこす。だが諸橋だけは一緒にいられるという。神戸は外見に自信がないキャラクターだが、例えば顔立ちの整った女性が同性愛や男性恐怖症をカムアウトすると大概言われるのが「もったいない」というデリカシー欠落ワードだろう。その点から見ても、男性恐怖症もまた真の意味では理解されづらい性質ではないだろうか。漫画やアニメの男性恐怖症キャラは必ず主人公を好きになり、実際神戸も諸橋に心惹かれている。だが、それはなんら不思議なことではない。猫好きなのに猫アレルギーがあったり、チーズが嫌いなのにピザは食べられたり、一筋縄ではいかない複雑性こそが人間の性である。神戸は男性が女性を性的な視点で見ているという部分に気持ち悪さを感じている。諸橋は水に対してのみ欲情し、人間には性的興味を示さない。そのドライな雰囲気が神戸を安心させたのかもしれない。

桐生と佐々木による疑似性行為とも言うべき体位の確認作業はノーマルな人間からすると滑稽だが、当事者達は至って真面目。「普通」に対する理解を深めるためのプロセスとして必須な行為だ。彼らは共感できる仲間と繋がる事で安心感を得ていただけではない。ちゃんと理解しようと努力していたのだ。それは頑固な寺井にはない思考である。

寺井と桐生の出会いは偶然だった。その際寺井は桐生を既婚者であるという前提で会話する。指輪を嵌めていたからだ。寺井にとってもその他多くの人達にとってもそれは「普通」のこと。
桐生にとってこの「普通」は嬉しかった。社会からはみ出していた実感を抱きながら生きてきたから。初めて「普通」に擬態することができた。それは同志である佐々木の存在が大きいことは明らかだ。そして「異常」である桐生を一般的社会人として認めたのが「普通」の体現者たる寺井というのは皮肉以外の何物でもない。さらに桐生は佐々木を得たが、寺井は妻が子供を連れて出ていってしまった。この対比が実に見事。

佐々木は水好きのコミュニティを広げようとSNSを通じてメールを送る。その相手は諸橋であった。さらに諸橋が声をかけた矢田部の三人で公園で精一杯水で遊ぶ。周囲には共に水浴びする子供たちがいた。後に矢田部は逮捕された。性欲を男児に向けていたためだ。端末からは多くの裸の児童の写真や動画が残されており、そこには佐々木と諸橋と公園で撮った水浴び映像も含まれていた。小児性愛者の仲間だと寺井に詰め寄られ、矢田部は肯定したようだ。佐々木と諸橋は逮捕された。

桐生は水の動画を聞きながら水に満たされていく妄想に耽り、閉じた両の腿をわずかにくねらせる。月夜に照らされた群青色も相まって艶かしくも美しい性の神秘を感じさせる。
対して諸橋は直接的な自慰行為が描かれる。今作を見るとその性的嗜好故に水そのものが性の象徴として描かれている。
省かれてはいるがおそらく佐々木も性の発散に水を使ったことがあるだろう。そんな彼らが公衆の面前で水浴びに勤しむ、桐生と佐々木が給水所で学生時代に思いを馳せながら水を楽しむ、これらの行動は水ポルノとして破廉恥極まりなくわいせつ行為に当たるのではないか。
彼らにとっての水は生殖に等しく、しかし正しい意味での生殖には反発している。多様化の難しさがここにある。

桐生は寺井に佐々木への伝言を頼むが丁重に断られる。弁護人を通す必要があるためだ。辞去しようとする桐生を呼び止め寺井は逆に質問する。参考までに何を伝えたかったのかと。それは普通の事だった。いなくならないよと。ただそれを伝えたかったのだ。だがそれを寺井はどう感じたのだろうか。普通であることを突詰めた結果、寺井は妻と息子を失ったのだ。その普通が今の寺井にはなかった。

桐生と佐々木、諸橋、神戸、普通から零れ落ちた者たちはお互いに少しずつ歩み寄り他者を理解しようとし絆を深めていく。その対となる存在として寺井がおり、「普通」に固執することで全てを失った。さらに佐々木と諸橋が逮捕されたことで両者の共存は困難であると提示される。

今作は根深いテーマに留まらずリアルな人物描写と巧みなプロットにより一瞬たりとも目が離せない。キャラクターの細かな動作や心の揺らめきを見逃さないように目を凝らさなければならない。
己の人生の2時間を捧げるに相応しい傑作である。
くまちゃん

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