coba18

正欲のcoba18のネタバレレビュー・内容・結末

正欲(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

色々な年代、性癖、経験、人生観念に対する「普通」という曖昧だがある意味ではありふれたマジョリティとされる考え方が、どのように社会全体に覆い被さり、そしてその支配に苦しむ人がどれくらいいるのか。そして、その言葉を使う時に、その範囲、深さ、前提を想定し自問できるか。

想像力を試されている映画だった。

普通=多数派とするならば、
長い人生の中で、誰しも、いつ、どのフェーズで少数派(=普通でない側)に回るかもしれない、社会的な弱者になり得るかもしれない、、
そんな時に、自分の選択や生い立ち、自分全てに対して意義を見出し、徹底的に自己を肯定できるのか。
社会的、経済的に自由を得た我々が成熟した現代に生きる上では、必要とされる態度であると思う。

アイシュタインが、常識とは18歳までに揃えた偏見のコレクションである、みたいな事を言っていた(たぶん)が、たまたま持ち得た経験・意見や考え方が多数派か否か、だけの問題であり、それを普通か否かに区分けするのは違和感がある。そこに思考停止は無いのか?と一石を投じられてた感じ(作中では鉢が投じられていたが)。


「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」とビスマルクは言うが、
普通=自分の経験・見聞から得られるもの、とするならば、その言葉を軽々しく使う人は愚者であるのか。
特に、歳を重ねるごとに経験が増し、自分が普通(=経験豊富)である事を自分の中でさらに追認した結果、それ以外を普通でない、と断定する人たちは身の回りでも一定数いるな(自分の親世代含め)と思う。
ある種、脳のキャパシティを確保するための思考停止による温存にちかいような感触かな。
ただ、その判断に至る様々な背景があるにせよ、自分(経験)以外を「普通でない」と言い切るのは、今までも、これからも違和感が残るし、自分の想像力が働いているか客観的に評価する時の一つの物差しにできるのでは、と思った。

最後に、
ダイバーシティを表現するための画一的な手法への皮肉と、普通でない側の人から普通の伝言(これも最大級の皮肉)と、そして、イオン東久留米店(頻繁に利用)、この3点が今作品のハイライトだった。
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