ねこみみ

正欲のねこみみのネタバレレビュー・内容・結末

正欲(2023年製作の映画)
2.9

このレビューはネタバレを含みます

まだ上手く整理できていないけれど、私は☆4.0がつくほどの傑作ではないと感じる。
俳優はみんなよかったけど、おそらく原作が苦手だ。(未読です)
結果、好きじゃない映画でした。

何が嫌だったのか頑張って言語化してみます。
なので、このレビューは批判レビューみたいになります。嫌な方は読まない方がいいです⚠️

多様性。普通とはなにか。自分にとっての普通が誰かにとっては普通じゃない。少数派の生きづらさと、その中でなんとか生きていく苦しみ。

言いたいことはよくわかるし、最近よくあるやつだし(それが悪いとは言ってない)、最後の「普通のことです」「いなくならないからねって」の皮肉めいた終わり方は小説的で良かったと思う。
だけど、だけど、、、うーーーーーん。

水が好きであるということ。

この設定に負けてると思う。
水が好きという設定を思いついた時点でたぶんこの物語はそれに勝つことができなかったのだと思う。

なんだろうなあ、「いかに変態的な性的指向を設定するか」に命かけたんだろうなあ、みたいな。
というか、水好きはたしかにびっくりするくらい珍しいけど、バカにしたり嫌悪するような指向でもないと感じるし、それがここまで変態的扱いをされるのが価値観としてズレてると思う。
水好き設定に限らず、稲垣吾郎がいう「普通の人」が作った話なんだろうなーって感じがあちこちからぷんぷんするのよ。
マジョリティ側の人間がこういう話をつくるのはダメじゃないけど、マジョリティが作ったんだろうなと感じさせてしまったらダメだと思う。
朝井リョウってほんとにマイノリティの気持ち理解してんのかな。(朝井リョウのファンのみなさんごめんなさい)

(役名覚えてないので俳優名入り混じります)
稲垣吾郎の家族の話。
この物語の中で稲垣吾郎は、「不登校の子供を理解しようとしない、YouTubeをやりたい子供を支援する母を理解しようとしない、普通を押し付ける嫌な奴」として描かれている感じだけれど、ここにまずかなり無理があると思う。
なんだかんだ小言をいいつつも無理やり止めさせたりしないし、至極真っ当なリスクの話をしている稲垣吾郎は妻にあそこまで糾弾されるほどの人ではないと感じる。
いつ犯罪に巻き込まれるかわからない現代に小学生にYouTubeを使わせて知らないうちに男を家にあげてる妻のほうがよっぽどおかしいというか、いやあれやられたら心配にもなるよ。妻、あぶないもんなんか。
不登校にはもっと理解をして寄り添ってあげるべきだし、言い方が良くなかったけど、それがイコールYouTubeを容認しろにはならないと思う。

また、この話はずっと水好きの目線で描かれているので「水好きを理解しない稲垣吾郎」に嫌悪感が生まれるつくりになっているけど、あの2人は故意ではないとはいえ実際に小児性愛者と関わっていた上に疑わしいデータまであるわけで、検察官としては疑うことは間違いではない。もちろんここでも言い方は良くないけど。

稲垣吾郎をとりまく「悪者に仕立てあげるための見せ方」にずっと違和感があって、それが「普通」という言葉で攻撃されたラストは稲垣吾郎の目線で見ると苦しさが残る。
本当に彼は悪者だと思う???

そしてダンスサークルの彼と、男性恐怖症のあの女の子。
ここもほんっとに描き方が気持ち悪かった。すごく嫌い。

あの女の子が大変な過去を経験してきたのはわかるし、それで男性恐怖症になったのもわかる。けど、それならストーカーまがいのことをしていいの?
動画をめちゃくちゃスクショしたりバイト先にまで行ったり捨て垢でコメントしまくったり。かなり怖いことしてるよ。
最終的に彼の「ありがとう」でいい話みたいになってるけど、彼があの子と講義室で話してた序盤に言っていた通り、「同情を誘うような話」をして、それで相手が迷惑してようが自分の気持ちだけ押し付けて、それっていいことなの?
ここをぼやけさせるために、あえて女性側をマイノリティにしてるんだろうなと思う。

でもこの物語のまとめ方だと、あれさえも「マイノリティの理解されない苦しみ」だから「受け入れてあげるべきだ」になってしまうわけ。
私はそれは本当に本当に違うと思う。

例えば、小児性愛者だって言ってしまえばマイノリティだけど、じゃあなんでこれは非難されるわけ?犯罪だからといえばそれまでだけど、それってつまり「他人に迷惑をかける・危害を加える行為だから」だと思う。
じゃああの男性恐怖症の女の子のストーカーまがいの行動は?男女逆ならどう?
水好きの男たちが集まって半裸で子供たちと遊ぶという行為は?自分が親ならどう?

かなり基準が曖昧だと思う。
それを朝井リョウの個人的な価値観で「良い」と「悪い」に分けて、「良い」のマイノリティ側からの目線で映像を見せられて、それを認めろ、と押し付けられているように感じる。

そして、水好きであるガッキーと磯村勇斗。
それ自体がマイノリティなのはよくわかるけれど、それであそこまでの生きづらさになる?
きっと水好きということ以外にも色々あった人生だったのだろうと思うけど、人間なにかしら人に理解されない指向・嗜好くらいあるもので、もうちょい人生を描いてくれないと感情移入がしづらい。

だって男女で恋愛感情がわかないのも、結婚したい気持ちがないのも、なにも水好きに限ったことじゃない。
じゃあ水好き以外の男女間の恋愛感情を持たない人達は一概に死にたいほど生きづらいのかというと、そういうわけでもないと思う。

なんだかそういう背景描写がすごく浅くて、本当に「水好きマイノリティ」という印象的な設定に頼りきっている感じがしてしまうのかもしれない。
だから、ガッキーが磯村勇斗のマンスリーマンション?みたいなところで気持ちを吐露して、磯村勇斗が「俺が話してるのかと思った」と言う場面も、「水好き」というただ一点だけでそんなに全ての感性が一致するわけがなくて、ハリボテの言葉のやり取りを見せられているようで、めちゃくちゃ冷めた。

それに、マイノリティを肯定するためにマジョリティを否定するような構図も嫌いだ。

ここまで書いてみてやっぱりなんだか好きじゃなかったなと思った。

あ、あのダンスサークルの彼が言っていた、「ダイバーシティのために好きじゃない振り付けを踊るほうがよっぽど差別だと思いますけど」(ニュアンス)みたいなセリフだけは、すごく好きでした。
私にはこの物語全体が「ダイバーシティの利用、押し付け」に見えて仕方なかったよ。
ねこみみ

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