カポERROR

正欲のカポERRORのネタバレレビュー・内容・結末

正欲(2023年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

【孤独に至る病】

※バラフィリアについて、以下サイト参照。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2
(「脳科学辞典」より)

まいった。
本作のお陰で、しばし暗黒面(ダークサイド)に堕ちてしまい、筆が全く進まなくなってしまった。
気付けば、書いては消し、また書いては消しを繰り返す日々。
もはや我がLIFEはゼロなりよorz

初めに書いておこう。
私は朝井リョウの原作未読だが、本作はエンタメとして、非常に見応えのある素晴らしい作品だ。
パラフィリアの生きづらさを描きつつも、『皆決して一人ではない』『どんな人だって誰かと分かち合い理解し合える』『前を向いて生きていい』というポジティブなメッセージもしっかりと発信していた。
それは性的嗜好に関わらず、様々なストレスに悩む多くの現代人に向けたエールとも取れよう。
そして、新垣結衣や磯村勇斗、佐藤寛太、東野絢香の熱演。
一見もの静かでありながら、人には見せられない激しい衝動を内包した稀有な心の有り様を、繊細かつ丁寧に表現していた。
更に、”法”と自身の考える”普通”の尺度で、周囲の人々とその生き方を評価する稲垣吾郎演じる検事:寺井啓喜と、”法”を破り小児を囲ってポルノ動画を撮影する岩瀬亮演じる”ペドフィリア”(小児性愛者):矢田部陽平。
一見対極の存在である彼らが、二人とも年端のいかない小児から、全く同じ怒りの眼で睨まれるその皮肉極まりない描写は、作中屈指のギミックだった。
とどめはラスト。
桐生夏月が寺井啓喜に対し佐々木に伝えて欲しいと呟いた”普通のこと”…「私はいなくならないよ」。
こちらも実に爽快なカウンターだった。
自身の”善”や”普通”を物差しにする差別主義者にも近い啓喜が、彼の尺度では明らかに異常な夏月から、妻と子がいなくなった啓喜の境遇こそ”普通ではない”と言外に揶揄されるのだ。
そう、こうして一見すると、本作は要所に鋭い洞察力とパンチの効いた、優れたエンタメ作品なのである。

しかし…私の中で何かが引っかかった。
それが何かを掘り下げて行くうちに、私は暗黒面(ダークサイド)に堕ちることになるのだ。
それを説明するために、まず本作の主題と夏月たちの境遇を整理してみよう。

・”水”に性的興奮を覚えるパラフィリアの
 主人公たち。
・依存性などとは異なり、彼らがその性的
 嗜好に傾倒する”きっかけ”となった
 事象などは特にない。
・つまり彼らにとっての性的嗜好対象が
 たまたま”水”だっただけで、彼らは
 当然、それを望んだわけでもない。
・彼らは年頃の異性には一切性的な興奮を
 得られない。
・そんな自身の性的嗜好が極めて特異で
 自分たちの存在が世間から見て
 マイノリティだという自覚があった。
・故に、誰にもそうした性的嗜好を
 悟られぬよう隠して、普通になりすまし
 擬態して生きようとしてきた。
・そのため、自分たちを誰からも
 理解されない異端者だと断じて
 絶望と孤独に苛まれながら
 生きながらえてきた。
・そんな中同様な性的嗜好を持った存在と
 出会って期せずしてその想いを
 分かち合うことになる。
・自分を理解してくれる存在との
 出会いによって
 初めて生きる喜びを実感した。
・例えこの存在を理解しない者が
 いたとしても
 自分を理解してくれる大切な
 その存在のために
 自分は決して”いなくならない”。
 そう誓った。

そうして、私はふと思ってしまったのだ。
もし、佐々木や諸橋や桐生の性的嗜好対象が”水”でなく、矢田部のように”小児”だったなら?
上述の箇条書きの”水”を”小児”に置き換えたら成立しないのか。
否。
きっかけもなく、偶然それに性的興奮を覚えるようになったのであれば、対象が何であっても成立し得るではないか。
本人が望まずとも、小児性愛者は生まれるのである。
ペドフィリアとてパラフィリアの一端に他ならないのだ。
しかし…
ラストの取り調べシーンで、諸橋と佐々木は毅然とした態度でこう言い放つ。
「子供を傷つけたことはありません。」
そう言った時の諸橋のあの感情のない眼差し。
あの眼が私たちにこう訴えているのだ。
「私は小児性愛者でも児童性犯罪者でもありません。」と。
それは単に事実の吐露だったのかもしれない。
だがその時、彼らは間違いなく、「自分たちは、ペドフィリアやチャイルドモレスターとは”違う”」とはっきり一本の線を引いたのだ。
そう思い至って、私はようやく自分の中にひっかかっていた”しこりのような物”の正体に気づいた。
性的嗜好に負い目を持つ同じパラフィリアでありながら、たまたまなってしまった小児性愛者を、法や秩序や自分の物差しで区別し、自分たちと一緒にするなと拒絶をし排除する行為に底知れぬ闇を感じ取ってしまったのだ。
これと寺井検事の傲慢な差別と、一体何処が違うというのか。
私は性犯罪を決して肯定してはいない。
だが、偶然がその性的嗜好を生むのであれば、少なくともペドフィリアは病ではないか。
佐々木や諸橋の言動は、同じく病に苦しむ境遇の仲間の行為を、人に危害を加えた犯罪者と烙印を押して「一緒にするな」と排除したのである。
佐々木や諸橋が如何に性的嗜好においてマイノリティであっても、彼らの対象は美しい水でしかない。
最初から誰も傷つけたりする恐れもない。
しかし小児性愛者の矢田部はそうではない。
もし佐々木や諸橋らが矢田部のもう一つの顔を知っていたら、決して近づくことはなかったであろう。
マイノリティからも忌み嫌われる存在。
そうなのだ。
本作で最も救いがなく孤独な存在は、桐生夏月でも、佐々木でも、諸橋でも、寺井でさえもない。
間違いなく、矢田部陽平なのである。
しかも、本作でその性的嗜好は、あくまで偶然授かったものとして描かれている。
ある日、私が、矢田部陽平になることだって有り得るのだ。
脳内で矢田部陽平の今後を想像する。
過去には睾丸を切除しても、幼女を襲った児童性犯罪者もいたというが、昨今の性犯罪再発防止治療プログラムでは、ストレスが小児への加害に繋がることから、多くの児童性犯罪者は定職につかず、生活保護で子供と接することがない隔離された環境で生活をする。
マスターベーションすらも禁止なのである。
私が矢田部陽平になったなら、誰にも理解されず、たった一人こうして孤独と闘いながら、果たして、人を傷付けることなく、天命を全うすることができるだろうか。
そんな性的嗜好が…偶然でもたらされるというのならば、私は間違いなく神を呪う。

冒頭で記した通り、本作で、佐々木佳道と桐生夏月のポジティブな物語を観たはずだったのだが…数日後、私の脳内は社会から拒絶された矢田部陽平の孤独な人生の末路で埋め尽くされていた。
漆黒の闇だった。

✤✤✤

何度も言うが、私は性犯罪者の行為を絶対に許さないし、何があろうとその行為は認められるものでは無い。
だが、そうした性的嗜好で自ら苦しむ者がいるのであれば、また惨たらしい性犯罪を予防保全出来るのであれば、そこには手を差し伸べるべきだと強く思った。
また、その後色々と調べた中で、矢田部のような犯罪を償って、支えてくれる伴侶と手を取り合って生きている人がいることも知った。
全てが絶望ではなく、希望があったことに、とても救いを感じた。
https://gendai.media/articles/-/99460?imp=0
(週刊現代 2022/9/10より)

非常に重く長いレビューとなってしまい、本当に申し訳ない。
少なくとも、私にとって本作は決して忘れ難い作品になったことだけは確かである。
未見の方は…あまり妄想に深入りせず、楽しまれることをお勧めする。
『正欲』は現在、Netflixにて見放題配信中。
U-NEXTその他サブスクではレンタル配信中。

余談)
本作で、もう一つ気になったのが、『稲垣吾郎演じる検事 寺井啓喜の性的嗜好は何だったのか』という点である。
それに関して、作中では全く触れられない。
性機能障害かとも思ったが、実際のところは作者のみぞ知るだ。
私的には…
主人公たちのように、”水”に触れることでドーパミン、オキシトシン、セロトニン、エンドルフィンが大量放出されるという、世にも美しい設定と対照的に…
例えば、還暦女性の履くあずき色のパンツを見ると、これらの4大しあせホルモンが大量分泌されるといった尖った設定だったなら、稲垣吾郎のファンになっていたかもしれないのだが。
…失礼、それは私の性的嗜好だった…
(*/∇\*))))))ィャ―冫♪
カポERROR

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