湯呑

フェイブルマンズの湯呑のレビュー・感想・評価

フェイブルマンズ(2022年製作の映画)
5.0
カメラはありのままの真実を映し出す。しかし、編集とはその真実を切り刻み、繋ぎ合わせ、ひとつの虚構を作り上げる行為でもある。では、そのカメラと編集を必要不可欠とする映画とは私たちに何を伝えようとするものなのか。
母親の不貞を隠蔽しようと少年フェイブルマンが編集したフィルムに無邪気に喜ぶ家族たち。そこに映る自分の姿を観て、これこそが本当の私だと母親は感激するのだが、もちろんそれは彼女自身が演じようとしてきた虚構としての母親の姿に他ならない。それとは逆に、同級生を少しでも良く見せようとヒロイックな演出を施したビーチパーティの記録映画を観て、その当人はまるで自分が貶められたかの様に感じ、青年フェイブルマンに激昂するのだが、被写体が自覚すらしていなかった内面的な軽薄さ、平板さを(撮り手の意図を裏切る形で)映し出してしまうのもまた映画の恐ろしさなのだ。
真実を捉えた筈のカメラの映像がいつしか虚構に転じ、虚構として編集した映像に真実が紛れ込んでしまう事。この矛盾こそが映画を映画たらしめている事を、長いキャリアの中でスピルバーグは気づかざるを得なかった。その残酷さをそのまま物語に織り込んでフィルムに定着させる事が本作の目的のひとつだった筈である。
だからこそ、フェイブルマンがあのジョン・フォードと邂逅し、地平線をめぐる教えを受ける場面には涙が止まらなかった。画面の下に地平線を置いた本作は、地平線を画面上方に据えたラストシーンで幕を閉じる。それが真実であろうと虚構であろうと、スピルバーグはあくまで映画としての視座にこだわり続ける。見せかけの現実らしさに屈服して、地平線を真ん中に置く様な真似だけはすまい、という反時代的な覚悟がここには込められているのだ。
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