菅田将暉や森七菜の演技には良い部分があったのですが、映画全体としては全く好きになれない作品でした。
賢治、トシ、政次郎にフォーカスを当てる一方で、トシ以外の賢治の弟妹がモブキャラのような存在になっていることが家族映画としてものすごく異様です。特に弟の清六は賢治の死後、作品全集の出版や校訂に大きな役割を果たした人物です。
カメラワークが非常に不安定です。ワンカメラで撮影したのか画面がぐらぐらと揺れ、船酔いのような疲れを感じました。一体どういうことなんでしょうか。
父親からみた賢治ということをテーマに据える着想はよいはずなのに、この映画は政次郎を必要以上に「良い人」として描いていて、なぜ賢治があれほどまでに苦しむのかという部分が描かれない。父親の無理解や欠点も描かれず、賢治の不快な部分や甘えも弱いために、政次郎が芸術を受容していく過程の描写が浅くなってしまっている。この映画における賢治や政次郎の人物像は、あまりにも一面的です。
強烈な違和感があったため、映画を観たあとに原作小説を読んでみました。推測していた通り、原作は映画ほど政次郎を美化していません。病気の息子を率先して看病する愛情深い面もありながら、頑なな厳格さから息子を理解することができない、というような葛藤や複雑さがこの映画の政次郎にはない。演出が薄くて浅いです。
そしてこの映画では賢治の死後、どうやって数々の作品が世にでたのかも描かれない。映画タイトルの「銀河鉄道の父」ということを考えると、むしろ賢治の死後、その作品の数々を家族がどう大切にし、どう世に出していったのかを描くことに意味があるのでは。
映画は必ずしも事実のみを描くべきだとは思わないのですが、たとえば「雨ニモマケズ」は、賢治の死後に家族に発見された作品であるのを、この映画では政次郎が死にゆく息子の病床で朗読する。美化をしたいがための作為がここで最高潮に達するに至ってはため息が出ました。若くして亡くなった息子の詩を見つけたときの父の姿をなぜ描かないのか。トシが「きれいに死ね」という部分も史実とは違う映画のフィクションで、森さんの演技は良いのにトシの人物像と合っていない。
そしてエンディング曲。それまでの映画音楽と全く曲調の合っていないポップスが流れる。商業映画だからしょうがないんでしょうが、はっきりいえば余韻ぶちこわしでした。