あなぐらむ

忘れえぬ想いのあなぐらむのレビュー・感想・評価

忘れえぬ想い(2003年製作の映画)
5.0
ブログでいつもお世話になってた方が「ワンナイト~」に続いて字幕を担当されてる事もあって本公開当時に観に行った。
「ワンナイト~」は非常に重厚で切ない作品だったが、題材が全く違う本作もまたイー・トンシン監督らしい人間というものに対して真摯な、しみ入るような作品だった。

主人公シウワイ(セシリア・チャン)はミニバスの運転手の婚約者マン(ルイス・クー)を突然の交通事故で亡くす。
茫然自失の中、彼女はマンの連れ子ロロ(原島大地)を引き取り、マンの後を継いでミニバスの運転手として暮らす事を選択する。しかしお嬢様育ちの彼女にとってミニバスの運転手は過酷な職業。違反で罰金をとられたり他所のシマを荒らしてしまいトラブルに巻き込まれたりと収入もままならず、生活は苦しくなるばかり。そればかりか父母や姉ともロロを引き取った事でぎくしゃくして孤立無援の状態になるシウワイ。
それでもマンとの「忘れえぬ想い」を胸に必死に日々を生きようとする彼女に、マンの同業者だったファイ(ラウ・チンワン)が手を差し伸べる。ファイはすぐにロロとも打ち解け、シウワイにミニバスのイロハを教え、金も工面してやり、彼女を支えていく。
ファイの優しさに触れ、少しずつ穏やかさを取り戻していくシウワイ。
そしてまた、ファイもシウワイに惹かれ始めていた。
だがやはりすぐには生活は楽にはならず、家賃を払うにも窮する現状に、遂にシウワイはロロを手放す決心をするが・・・。

あらすじだけを読むとほんとどこにでもあるような話(実際に実話をベースにしてるそうだが)で、映画的にどうなのよ難病ものでもないし記憶も消えないぞ、という感じなんだが、市井の人間の等身大の哀しみ、不安、そして気丈に生きていこうとする様を描かせたらイー・トンシンに敵無し。
開巻すぐに愛する人を喪ってしまうシウワイの動揺と自失の大仰にならない表現。それでいてほぼ映像と役者の動きだけでそれは充分に伝わり、我々はシウワイと気持を同じくして以降の物語を注視せざるを得ない。
前半のこれでもかという感じの「現実の厳しさ」の描写。丹念な演出と無駄のないシーン運びで追い込まれていくシウワイに胸が締め付けられる。
だからこそのファイの無骨な、不器用な優しさが余計に嬉しいのだ。
中盤のロロをいよいよ施設に預けようかという件りや、マンの死の間際の真相を知らされた時のシウワイの哀しみは、彼女の健気な様を観てきただけにまるで我が事のように感じられてしまう。
シウワイと父母のぎこちない気持のやりとりもまた、予定調和に流れない抑制された描写として提示されており出色。留守の間に届けられている「スープ」に不器用な愛情が溢れる(香港映画では「スープ」が非常に大切な感情表現になっているので、見返した際には注目して欲しい)。
クライマックス、互いの想いに気づきつつもその前で立ち止まり、ファイとシウワイが自問自答する様もまた、極めて人間臭さを感じさせる。
これは愛なのか。それとも寂しさからの逃避なのか。過去はいつか忘れ、今を生きなくてはいけない。けれど、だから故に「忘れえぬ想い」もあり。ここには映画としての枠組みを越えた「人」がおり、「人生」がある。

全編、監督を信頼してのノーメイク演技に挑んだ(ちょっとはしてると思うが)セシリア・チャンは、華奢な身体で自らミニバスを運転し、子育てに奔走する「ある女性の生き様」を見事に演じきっており、そこには香港映画にありがちな「スター演技」ではない、まさに現実に生きる「人間」の重み、リアルがある。香港電影金像奨の最優秀主演女優賞は当然と思える、ある種貫禄さえ感じさせる堂々の演技だ。マギー・チャンの再来、は決して大げさではないと思う。
対するラウ・チンワン。この手の役をやらせると本当に巧い。所謂イケメンでないが故に、余計にこの不器用な優しさしか持てない男がハマる。
そして原島大地ちゃん。これ反則。可愛すぎ。演技自然すぎ。この子のあどけなさ、邪気のなさには日本の子役のどこか狙った感のある演技は太刀打ちできまい。
イー・トンシン組のチョン・プイが毎度毎度のガンコ親父役をやってるが、今回は厳しいというよりは娘に対してうまく接する事ができないだけ、な父親像を等身大で演じて懐深し。

イー・トンシンの演出で今回凄いと思ったのは、泣きが武器とも言えるセシリアに前半一度も号泣させていない点。
「悲しいのに涙が出ない」それは本当に悲しいからだ。そして泣かないと決意したからこそ、意地でも落涙を堪える。
それ故、ファイの言葉に安堵した時、そしてファイの「嘘」に傷ついた時の号泣が倍化されて見る者を打つ。
まさに名匠の仕事とも言うべき采配。ただ悲しげな音楽を流して悲しげなシークエンスを重ねればよいのではない。
「泣かそう」とするのではなく結果的に「泣ける」こと。両者の隔たりは実は非常に大きいのではないか。
当時の香港の、本当の市民の目線で、時に厳しく時に優しく「ひと」を見つめる彼の演出は見事だ。

またこれは作劇的な面だが、電話や留守録メッセージといったアイテムを実に効果的に使っているのが印象的だ。
例えば死んでしまった人(の携帯電話)からかかってくる電話が哀しみを倍化させたり、「忘れえぬ想い」の具体化としての喪った人の遺したメッセージが今を生きる人をある時は慰め、ある時は苦しめる点、そしてお互いの想いを素直に告げるには照れがあるからこそ、携帯電話で伝える、などなど、安易にではなく、コミュニケーションツールとしてのこれらアイテムが非常にドラマに厚みを与えていると思う。

イー・トンシン監督はこの翌年「ワンナイト・イン・モンコック」を撮る。そこに描かれるのは孤独な魂の奇縁の物語だった。
本作「忘れえぬ想い」もまた、さまよえる孤独な魂がぎこちなく出会い、触れ合っていく物語だと言える。