海

aftersun/アフターサンの海のレビュー・感想・評価

aftersun/アフターサン(2022年製作の映画)
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夏休みももうすぐ終わる頃だった。わたしと、ママと妹と、そのひとの4人で、夕方、幹線道路沿いにあるファミレスに入った。彼はわたしの父親じゃない。ママの恋人だった。覚えているかぎりでは、わたしが彼に会ったのは、それが最初で最後だ。でも彼のほうはわたしたちに何度も会っていたはずだと思う。わたしたちを寝かしつけたあとに彼と会っていたママは、彼にわたしたちの寝顔を見せるために、寝室のドアを開けただろうから。その証のように、わたしにとって最初で最後のその日、彼はまるで父親のような顔をして、ママと並び、わたしたちの前に座っていた。ほとんど顔を見ることができなかった。じっと見つめたかったけど、そんなことをするのはおかしい気がした。この時間が終わるような気がした。当たり前のように、まるではじめからずっと家族であるように、振る舞うべきな気がして、そうした。おかげで、彼の顔を、今わたしは少しも思い出すことができない。でも、あの日に焼けた肌と、うそみたいに大きな手と、電話でたまに聞いていた低い声と、ママのとなりに彼がいるその景色を、今見たとしても、安心して、泣きたいくらいだと思う。ううん、今だったら、たぶん泣くと思う、泣きながら、パパって呼んでもいい?って聞くと思う。いつも、友だちの親や、学校の先生から、かわいそうな子だと思われている気がしていたけど、ファミレスにいたあの時間、今はそれがないんだと思っていた。それは不思議だったけど、すごくうれしかった。今はもう潰れてしまったその店は二階建てで、下は全部駐車場になっていた。わたしたちがいた窓際のテーブル席からは海がよく見えた。陽はゆっくり沈んでいっていて、まだこんなに明るいのにこれから夜がくることが信じられなかった。今までも海ってこんなふうだったのかな?そう思った。数年前、まだ一緒に住んでいた父親が、きっと機嫌の良かった日に、「今週の土曜、海へ行こうか」と言ったことを思い出した。あの頃わたしが見ていた海と、その日、ファミレスから見た海は、全く違ったように今はおもう。トラックがよく通る道だから、座ったソファはずっとガタガタと揺れていた。妹はハンバーグを食べていたはずで、わたしは全然食欲がなかったけど、妹と同じものを頼んだような気がする。辺りが完全に暗くなるのを待ってから、海岸へ出て、花火をした。海は真っ黒くて、ただ波の音だけが聞こえた。彼は、妹を抱き上げてぐるぐると回った。妹は大喜びで高い声を上げていた。わたしも楽しくて大きな声で笑った。ママは少し離れたところに座ってわたしたちを見ていた。なんとなく悲しそうに見えたから、何度かママのところに行って、花火一緒にやろう?と言った。ママは見てるよ、とママは言った。海岸で別れたあと、彼からすぐに電話がかかってきて、おなかすいてないかと聞かれて、今度はコンビニで落ち合った。さっき食べたばっかりなのに食べれるの?とママは聞いたけど、少しでも一緒にいたくて、おむすびを買ってもらった。さいご、わたしと妹は車の中からママと彼が話している様子を見ていて、ママはそのとき笑っていて、彼も笑っていた。ママが車に戻ったあと、彼に手を振った。ママと、彼について話すことはよくあったけれど、その日について話したことは、数えるほどしかない。記憶にある中で、最後に電話で話したとき、彼はわたしにこう言った。「ママが強くなれないときは、海が強くなって、ママを守ってあげられるか。」わたしは泣いて返事ができなかった。なぜ自分が泣いているのかもわからなかった。わたしが学校でいじめられたとき、「学校にちゃんと怒れ」ってママに言ったのは彼だったらしい。あの花火の夜、急に連絡がきたんだと、わたしが大人になってからママは教えてくれた。「あのひとは、父親になる覚悟ができるまでは、海たちには会わないって言ってたんだよ。絶対会わないって。そんなひと他にいなかったよ。だから、あのとき、彼の中で、何かがあったんだろうね。」ママはそう言った。子どもの頃は、すべてに、すごく複雑でむずかしい理由や事情があると思っていたし、大人になったら、わたしもそれがわかるようになるのかもしれないと思っていた。でも違った。わたしは今も、彼がなぜわたしたちにあの夜会おうとしたのか知らない。ママと彼がなぜ別れたのかも知らない。わたしの実の父親が、なぜママを殴ったのかもわからないし、なぜある夜わたしたちに、もう俺はお前たちの父親じゃないと言ったのかもわからない。なんとなく、そうだったのかなと理由を見つけることはできても、それがこの先、一生答えにはなってくれないことはわかってる。そのひとの心の中のことは絶対に誰にもわからない。それなのに、ソフィとカラムを追いかけたこの映画が、わたしには、自分のことのようにさえ感じられた。わたしはいつも、映画が始まるまでの短い間、かならず世界の終わりと始まりが同時に近づいているような気持ちになる。観たあと変わってしまうものがあることを知っているからだ。多くの人物と人生がわたしの中にあって、減ることは絶対になく、ずっとずっと増えていく。あなただけのものが、わたしのものとしてここにある。わたしだけのものが、あなたのものとしてそこにある。わたしにとっていつも映画はそうだ。映画を好きな、親しい友人が、「あなたは映画に愛されている」と最近、言ってくれた。その言葉を、本当にそのとおりだと感じた。映画に愛されていなければ、今頃生きてはいないかもしれないと思った。今、クーラーの風や、素肌を擦るシーツの感触や、静かに繰り返される呼吸が、ソフィとカラムのあの夏をわたしの体に教えこもうとしている。わたしの心に思い出させようとしている。観に行くべきではないと思った、父と娘の映画なんか。わたしのためにあるはずがないとおもっていた。それでもわたしはいまあいされている。わたしの記憶と、だれかの記憶のそのビジョンに、あいされている。もしもわたしに、この先父親ができたとしても、父親のように感じるひとが現れたとしても、わたしはもう決して11歳の少女には戻れない。11歳だったわたしのことを大切に覚えていてくれる父親はいない。わたしにとって、父親というものは、一生、もう一生、手に入らないものだ。カラムの背中を見て、行かないでほしいと思った。悲しくて、寂しくて、涙が出て止まらなかった。
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