デッカード

aftersun/アフターサンのデッカードのネタバレレビュー・内容・結末

aftersun/アフターサン(2022年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

※3,600字になりました。 


20年前、トルコでの旅行を楽しむスコットランド人の父と娘の何気ない旅。

とにかくラストの切なさにあふれた余韻が強く印象に残る映画でした。

しかし正直に言うと、とてもわかりにくい映画であるようにも思います。
父娘の旅の様子は淡々と描かれていて、特にこれといった事件は起こりません。
その映画としての描写に二人が録画したホームビデオの映像が挟まれます。

この映画の描写を絶賛する感想も少なくありませんが、それはおそらくラストを見て複数回鑑賞した方の感想ではないか、と思います。
この感想は1回しか観ていない上で書いていますから、映像や演技に仕込まれていたであろう観客にさまざまな感情を抱かせる細かい描写にはあまり気づいていません。
逆に言えば、この映画はラストを知った上で複数回観ないとちゃんとした理解に辿り着くことがとてもむずかしい作品に仕上げられているとも思いました。

初見の正直な感想としては、ラスト近くまではひどく退屈でした。

父カラムが端的にはわからない悩みを抱えていることは当初から無邪気なソフィと対比して描いている部分も少なくないので比較的わかりやすいのですが、それ以外は妻との離婚のこと以外ははっきりしません。
例えば当初カラムがなぜ右手を骨折してギプスをはめている設定なのかも、それが何かのヒントなのか?と観客に想像させますが、最後まではっきりとはわかりません。
カラムがビデオの画像で逆光ゆえにシルエットになったり、ビデオを止めたあとテレビの画面に映り込んだりと細かい映像としての描き方がされていますが、それの意図するものも明確にはわかりませんでした。

しかし、ラスト近くになっていろいろなヒントがわかりやすくなることで、やっと父カラムがこの旅の間どんな心境だったのかを観客側が積極的に想像するようになります。

また、ソフィがレズビアンとしてパートナーと赤ちゃんを引き取り育てながら暮らしていることもわかり、この映画の構造が少しずつわかってきました。
(現在のソフィが、その旅で買った「一つひとつにドラマがある」ペルシャ絨毯を今でも敷いていて、一人ひとりの人生にドラマがあることを暗示しているのはヒントとしてはわかりやすかったです)

まず、この映画そのものがソフィが旅から20年経って当時の父と同じ年齢になり、旅を記録したビデオの映像と自分の記憶と擦り合わせて父カラムを思い出しているという、ソフィの主観的な設定であることがわかってきます。
ただそれには疑問も残ります。
映画の中でカラムの描写の中にはソフィが知らないことやカラムの心理的なものもたくさん描かれています。
しかし、次第にそんなカラム主観の描写も実はソフィが今想像していることで、自分の知らないところでカラムはそんな風に悩んでいたのではないか?というソフィの想像の具現化のように思えてきました。

特に今レズビアンでパートナーと暮らしている事実があるがゆえにソフィが父が自殺までしてしまった理由を想像する上で、父がゲイまたはバイセクシャルだったのではないか?というセクシャリティへの悩みに主観的な想像を巡らせていることは当然あり得ることだと思います。
途中唐突にマイケルがバイセクシャルであることを匂わせる描写や、クイーンの"Under Pressure"が象徴的に流れカラムが踊るシーンのことを考えると、映画にセクシャリティに関して描いた部分があることは間違いないと観客はソフィとともに想像することができます。

20年前という時代背景を考えると、同性愛者に対しては、今では社会的に先進的と思われるヨーロッパでも今ほど寛容ではなかったのかもしれません。
特にカラムたちがスコットランド、イギリスでも田舎での暮らしだったとしたら、保守的な考え方が支配的だったという想像はあながち間違いではないように思います。
もしかしたら、妻との離婚の背景にも自身が同性愛者であることに原因があったかもしれません。たとえ妻は許しても妻の家族はカラムを許さなかったのかもしれない。
妻との離婚はソフィとの別居も意味していて、自分が心から愛しているソフィとこんな旅のようなかたちでしか会うことができない現実は、カラムを少しずつ削っていったのかもしれません。
また普通の日々の生活がひとりぼっちという寂しさは、同性愛者云々は別としても人の心を蝕んでいくもののように思います。

わかりにくいシーンですが、カラムの誕生日にソフィがサプライズで観光客たちみんなで歌を歌うシーンでカラムは少なくとも喜んではいませんでした。
その後一人で泣いている背中が描かれていて、そこにはソフィに本当の自分の姿を見せることなど許されない、理解してもらうことなどかなわない悲しみと、いつまでもソフィを見守って生きていける自信がない虚しさ、ソフィをどんなに愛していても自分が父としてふさわしい人間ではないと思っている自己否定が表現されているように思いました。
このシーンは一見カラムの主観に見えるのですが、実はソフィがあの後父は泣いていたのではないか?という想像に至った上での描写だと思えました。
現代になり、社会的な理解もありパートナーと堂々と暮らしているソフィが当時の父が同性愛者として孤独に悩んでいた苦悩を想像するのは自然な流れのように思いました。

ただ、それもカラムの悩みの一端でしかない可能性も残されます。
劇中で重要な言葉に聞こえる「生きたい場所で生きる、なりたい人間になれ、時間はある」という言葉を当時の同性愛者の悩みだけの言葉と取るのか?それだけで終わらせてしまうのも想像力不足のように思えてきます。
「場所」という単語が示す場所に囚われた生活が意味するもの、先に書きましたが、都市と田舎の同性愛者に対する寛容性の温度差はあるように思いますから、それを意味していたのかもしれませんが、もっと違うカラムが住んでいるコミュニティの独特の地域的な閉塞感そんなものもあったのかもしれません。
これは、都市だと多様性に対して寛容ゆえにあまり気になりませんが、日本でも地方に行けば土俗的なコミュニティのルールや慣習、そしてそれから外れた人に対する「村八分」に近い扱いなどは現代でも実際に存在しているように思われます。
カラムが何かそんなコミュニティから疎外感を持たざるを得なくなった何かがあったのではないか?そんな背景も想像することもできました。

映画全体としては、やはりソフィが父親という、親子と言っても別人格の人間に対して、「記憶」と「想像」という主観でその人に思いを巡らせる、過去には理解し助けることのできなかったことへの悔恨と別れた人に思いを巡らせるというやさしい気持ちに満ちた映画のように思います。
そう思うとこの映画は、ソフィという一人の人間が旅の当時の父と同じ年齢になるということをきっかけにして、当時の父の具体的にはわからなかった事実や心情を理解しようとする、それが自分自身が生きていく上で必要な他者への感情や理解、そして自分自身の生き方への肯定感を獲得していく物語のように思います。
人間は年齢や環境の変化で過去に理解できなかった他者の事実を想像する力があると思います。
それによって人は過去の他者に対してやさしい気持ちを抱いたり怒りなども許したりして自分の生きる糧にする力があるのではないかと思います。
この映画が、そんな以外と誰にでもある"ある時点になったときに過去の他者に対する理解"という、人が人らしい感情を厚くし自分自身も救済していくという普遍性のあるテーマを描いているとしたら、難解と思える映画そのものの評価はかなり変わるように思いました。

ただ、これは客観的で個人的な意見として読んでいただきたいのですが、シャーロット・ウェルズ監督がソフィ主観の「記憶」と「想像」による人間が持ち得る他者への想像力の大切さとその人の可能性を示す意図はよくわかりますし、最終的な結論も観客自身のそれぞれの経験から導き出される他者への想像力にほぼすべてを委ねたこともわかります。
しかし、その結論の出し方を高く評価するか否かは、淡々とし過ぎているストーリー展開とあまりにもわかりにくい細かいヒントのばら撒き方が混在する構成ゆえに鑑賞後の賛否も分かれるところだと思います。
説明的でわかりやすい主張の強い具体的な描写を排除し、観客がそれぞれに感じるやさしく切ない感覚にすべてを委ねる手法は、一つ間違えると何度観ても観客個人それぞれがなかなか映画への理解には至らず、結果映画の描写を作り手のあざとさとしか取られかねない危険な側面もあるように思いました。

まだ若いシャーロット・ウェルズ監督が次の作品でどんな映画を作るのか?
今後の監督作品によっても、この映画自体の評価自体がいろいろな方向に変わっていくのではないか?
いい意味での可能性を感じました。
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