このレビューはネタバレを含みます
※ネタバレありです。
今作で初めて蔦監督の作品を知った身としては、思っていた以上に面白く鑑賞することができ、鑑賞後は以下のレビューのようなことを色々考えてしまった。
なお、星を一つ減らしているのは、この作品を長編で見たいという期待からであることを付記させていただくーー。
ーー『雨の詩』は都会から離れた片田舎で自給自足の生活を営むジンとテラという二人の男の話だ。
この作品は一見すると自然讃歌でいるようでいて、その実、自然に向き合えない現代人の苦悩を描いている。
そして、それはそのまま監督自身を表してもいるように思える。映画の中で詩を引用している山尾三省への憧れを監督が公式サイトでコメントしていたが、そこには自然の中での暮らしと、そこに生きる人たちへの憧憬があり、今作のテーマの根底にはそうした自然との関わり方を巡る問題がある。
例えば、ジンがインタビューに応えるシーンで東日本大震災・福島第1原発事故に衝撃を受けたこと、また、災害の中で生活に困った人に対して水を売る家を見た時に持った違和感の話が出る。そして、そうした体験から自分はどう生きるべきか悩み始め、独り瞑想を続けてきて、今に至るとジンは話をまとめる。ここには監督の、文明社会への懐疑が明確に示されている。
ジンとテラが住む家は実際に徳島県は美馬市にある建物がロケ地として使われている。Earthship MIMAという名前のその建物はアメリカ人建築家により、主に廃材などを用いて建てられたゲストハウスだ。屋根に設置されたソーラーパネルで電気を蓄え、貯めた雨水を濾過することで生活用水として利用するなど環境に配慮したその建物が、作中では2人にとって文明社会から隔絶された中にある核シェルターのようなものになっている。
私はこうした舞台設定が今作では非常に効いていると思った。これが昔ながらの茅葺き屋根のある日本家屋では、単なる自然主義で終わってしまう。ある種、人類が持つ技術力によって作られたエコロジーハウスに2人が都市から遠く離れた僻地に住むから意味が出てくる。つまり、自然と人類の共生の在り方について。
そうした家で暮らすジンとテラは、食材も自分達で調達してくる。例えば、周囲に暮らす地元の人々と、動物の肉を串刺しにして鍋で煮る。そして、それをガソリンスタンドに持っていって、貰ったガソリンの代金として店の主人に渡したりする。この地域ではまだ貨幣経済以前のやりとりが日常的にあることを示している。
また、ある時は山を少し下って、川に向かうとそこで2人は食料になりそうな魚を捕獲する。家に帰ったら、そうして採れた魚を生きたまま調理する。この時、包丁でうなぎの腹を捌いたり、亀の頭を真っ二つにするのはテラの役目だ。ジンはそれを興味深そうに、また、少し恐ろしそうに眺める。このシーンのコミカルさというのは、関係ないとは思うが、少し周防作品的な物を感じた。
また、映像における演出について少し言及するとカメラは常にフィックスし、固定されたモノクロの画面の中で2人の日常が静かに描かれるのも印象的だ。観客はここにタルコフスキーを始めとしたロシア映画、もしくはタル・ベーラなどの影響を感じることができる。音楽が突然挿入されては消えるという演出も映画好きには懐かしいだろう。
この作品は中盤になると雰囲気が変わる。ジンとテラが川で採った魚を火で炙って調理した後に、焚き火を囲みながら食事するシーン。ここでジンが唐突に本を開いて、詩を声に出して読み出す。山尾三省の『火を焚きなさい』というその詩はまるでアメリカ・インディアンが現代人に対して語りかけているかのように「お前たちの遊びをやめて、火を焚きなさい」と繰り返し伝え続ける。テラが黙々と食事を続けている横でジンはそれを淡々と読み続けていく。「ほら、もう夜が背中まできている」とジンが読んだところで背景にある家の中の照明が消え、焚き火が照らす他は、辺りは闇に包まれるーー。
ーーここには現代社会に対する明確なカウンターがある。そして、遊び疲れた人類と自然との共存をジンとテラの奇妙な共同生活を通して描こうとしているのが『雨の詩』のテーマであることが、改めて理解される。
ジンは監督の分身であると同時に、文明人の象徴でもある。自然人そのままのテラの後をついて、一緒に狩りや調理をしたりするが、テラに比べると慣れない足取りや手振りであるところに、文明人らしいぎこちなさが感じられる。そして、それは映画の終盤に表れる。
映画の終盤、ジンとテラは夜の闇が辺りを覆う川辺に分け入り、魚を獲ろうとするが、流れが急になってきたところでジンはテラを引き止めようとする。しかし、テラはジンの声には耳も貸さずに先に進んでゆく。ジンの声が繰り返し響く中、闇が濃くなり、テラの姿はやがて見えなくなる。
ここには文明人と自然人の断絶がある。文明社会に疑問を抱いて、自然の中で生きようとするジンは山尾三省の詩を読み、瞑想し、テラと共に自給自足の生活をする。それは上手くいっているようにも見えるが、深いところでは自然と一体になれない自分に気付いている。
一方でテラは根っからの自然人だから、ジンの苦悩には共感できない。彼の生活は至ってシンプルであるが故に思想の入り込む余地がない。だから、彼はジンが読み上げる詩に興味を示さないで、採ってきた亀をむしゃむしゃと食らう。
映画のラストシーン。机に置いてあるジンの本を興味なさそうにペラペラめくってから、テラはいつものように狩りに出る。それからジンが現れ、テラがめくっていたその本を読み始めるが、そこで山が突然、噴火を起こす。黒煙を上げる山を黙って見つめるジンの姿を映しながら映画は終わる。
ここには圧倒的な自然の力の前では、人間は何も出来ず、ただ、それを見つめることしか出来ないという諦念がある。そして、それは東日本大震災と福島第1原発事故の二つを我々観客に思い起こさせるーー。
ーー劇中、『火を焚きなさい』という山尾三省の詩が引用される。
山尾三省は60年代にコミューンを立ち上げ、活動し、そのあとはインドやネパールに渡り、最後は屋久島で詩作をしながら畑を耕し、一生終えたという。まさにジンとテラをかけ合わせたような人物だ。
山に夕闇がせまる子供達よ
ほら もう夜が背中まできている
火を焚きなさい
お前達の心残りの遊びをやめて
大昔の心にかえり
火を焚きなさい
我々が原初の火を見つめるのは、もしかしたら人類が滅びようとする、まさにその時かもしれない。