ベイビー

エドワード・ヤンの恋愛時代 4K レストア版のベイビーのネタバレレビュー・内容・結末

4.4

このレビューはネタバレを含みます

群像は混沌を招き、混沌はいずれ収束に向かう



一度目に観た時はそんな作品だと気付かず、全然検討違いな感想を抱いてしまいました。

最初の鑑賞後何となく分かった“フリ”をしてレビューを上げたのですが、どうもそれがこの作品の本筋に思えず、モヤモヤを払拭するため、再度本作を見に行きました。

ということで再レビューです。

今回も妄想に近い勝手な考察をダラダラと並べたレビューになります。まだ作品をご覧になられていない方はご注意下さい。


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目覚ましい経済成長と近代化への発展を遂げた1990年代初頭の台湾。

文化や芸術、または芸能などにも新しい風が吹き始め、携帯電話を手軽に使いこなし、行きつけのフライデーズで食事をし、移動はポルシェのコンバーチブルを乗り回す。実に活気に満ちた台湾の勢いと成長を映した時代です。

今までエドワード・ヤン監督の作品を観ていると、必ず相対し合う対比効果が描かれているように思われます。今作で言えば、“男と女”、“出会いと別れ”、“大陸と台湾”、“喜劇と悲劇”、“偽物と真理”、そして“感情とフリ”…

僕は「牯嶺街少年殺人事件」を初めて観た時からエドワード・ヤン監督が好きになり、それからというもの限りある彼の作品を大切に観たいと思いました。そして今作が映画館で上映されると知り、公開初日に期待に胸を昂らせながら、急いで作品を観に行ったのです。

その昂る“感情”とは裏腹に、観ていて内容が上手く飲み込めない自分がいました。他のエドワード・ヤン監督の作品に比べて会話の量が多かったせいかも知れませんが、何となく話の概要は掴めたももの、物語の“真理”に触れることができなかったのです。

それでもレビューを書かなきゃなぁ。と思い、時代背景とかタイトルから本題を回収しようと当て推量で考察をひねり出し、さも全てを分かったかのような“フリ”をしてレビューを上げてしまいました。

しかしレビューを投稿してからもずっと頭の中に違和感が残り、そのうち分かった“フリ”で書き上げた自分の文章が恥ずかしく思えてきました。ですからそんなモヤモヤを払拭すべく、直ぐさま2回目を観に映画館へと急いだのです。

とは言え、2回目だからといって僕の理解力がどうにかなるわけでもなく、序盤はこの群像劇での入り組んだ会話を聴き取るだけでも精一杯で、作品を楽しむ余地すらありませんでした。

おまけに章区切りのキャプションにも気を取られる始末。それでもなんとか目をギンギンに凝らしながら作品を上手く理解しようとするのですが、登場人物たちの言葉を追えば追うほど物語の“真意”が遠のいて行くように感じたのです。“儒者の困惑”ならぬ“愚者の困惑”と言った気持ちです。

本作の英題である「A Confucian Confusion」を直訳すれば“儒者の困惑”となり、作中で何回も出てくる言葉です。この言葉が出てくるたびに“自分も困惑の中にいる”と思い、会話をなかなか理解できない時間も続き焦りさえ感じました。

例えば、モーリーの会社で働くコピーライターが「“情”なんていらない、必要ない」と言っているのに対し、のちにラリーは「“情”は必要だ」と言っています。その理由は「金になるから」。その中でも一番金になる“情”は“恋愛”だというのです。他にも「中国人なら“情”に流される気持ちは分かる」というようなことも言っていましたが、正直どの言葉も僕にはピンと来ません。

あと頻繁に出てくる“フリ”だってそうです。キャプションでも「“感情”というチープないい訳よりも、“フリ”の方がより真実に近い」と言っていたように、この物語は、愛想の“フリ”、気のある“フリ”、分かった“フリ”、知らない“フリ”、愛し合っている“フリ”など、登場人物たちは皆色んな“フリ”をして自分の“感情”を誤魔化そうとしています。

しかし観ているうちに「“フリ”に振り回されているのは当の本人じゃないか」と思えてしまうほど、登場人物たちの未来は、自分たちが思っているほど上手く転がっては行きません。誰かの“フリ”が“誰かの“感情”を逆撫でしたり、自分の“感情”を上手く誤魔化す“フリ”をしたとしても、結局自分がどんどん傷ついて行くだけなのです。そこに“真理”なんて見当たりません…

僕はそう感じた瞬間“ハッ”と気づきました。この“困惑”は導かれたものだと分かったのです。

物語を追うごとに僕が困惑したように、ここにいる登場人物たちも誰かの“フリ”に振り回され、誰かとの行き違いがおこり、誰かと誰かが絡み合うことで、必然と偶然がないまぜになって物語は混乱して行きます。その混乱は人間関係を困惑させ、人の心に複雑な“感情”を作り出し、“感情”を悟られないよう色んな“フリ”をしていきます。ここに描かれる様々な“フリ”こそが混沌の発端。そしてその混沌が極まったとき、物語は“真実”という収束へと向かいます。

その道先案内人はチチと言えるでしょう。

チチはモーリーからの依頼で、モーリーの義兄である小説家の所へ契約の話をしに行きました。その小説家は一時期恋愛小説家として人気がありましたが、彼に言わせればあの時書いた恋愛小説すべてが偽物で、本当は人の真理に迫るような、本物の物語を書きたいと思っているようです。

その小説家の仕事場は整然としており、余計なものは持ち込まないこだわりがあるらしく、床に置かれた本を除けばミニマリストそのものといった空間です。

その時は特に何事もなかったのですが、思い返せばこのシーンが物語の転換期と言えるかも知れません。チチが小説家の仕事場に携帯電話を忘れた時から、物語は少しずつ変化を見せて行きます。

この後も“混沌”は拡大して行き、チチはミンと喧嘩をし、モーリーとも言い争い、その勢いで会社を辞めてしまいます。彼女は明るくも振る舞えず、感情だって落ち込むばかりです。そんなチチは忘れた携帯を取りに再度小説家の仕事場へと向かいます。

チチが仕事場に入ると、部屋の中には小説家が追求する“真理”の言葉の数々が書き捨てられてありました。その言葉を読み上げてみると、小説家が突き詰めた究極は“死”でした。

人が与えられたものの中で、唯一平等なのは“死”

それが自分が突き詰めた“真理”だとし、持論を立証するように小説家は歩道橋の縁の上に座り、行き交う車の中へ身を投じるつもりでいます。しかし小説家には結局飛び降りることができませんでした。それはあの場で行き交う車を眺めながら色々と考え込むうち、“死”とはまた違う別の“真理”の存在に気づいたようなのです。

小説家は仕事場へ戻るとそこにチチがいたので、先程自分が感じた全てをそのままチチに話し出します。そして小説家は自分が生きる理由としてチチに、

「君こそ僕の生きる理由、君は僕に新しい希望をくれた、過去はもう死に絶え、君が新しい命を吹き込んでくれたんだ。だから僕を受け入れて」

と自分の気持ちを伝えます。するとチチは、

「そんなの無理だわ。自分の気持ちも分からないのに、他人は理解できないと今日あなたは言っていた」

と、困惑の色を隠せません。しかし小説家はそんなチチの言葉を遮るように、

「君だけが僕が生きる唯一の望みなんだ。君と生きる幸せを思って、僕は死ぬのをやめた」

と言葉を続けました。

思い返せばあの仕事場は、小説家が小説を書くための“実験場”と称し、余分なものを削ぎ落としていった部屋です。その小説家が今書こうとしている内容は、以前売れていた恋愛小説とは遠くかけ離れた、嘘や偽りのない“真理”が綴られた物語です。そんな究極の“真理”を突き詰める為だけに、あの仕事場は存在します。

しかしその部屋に似つかわしくないものが一つだけありました。それはオードリー・ヘップバーンのポスターです。髪型から想像すれば、あれは「ローマの休日」の時のものでしょう。そのポスターに気付けば必然とチチの髪型も気になります。彼女の髪型はまるでヘップバーンそのものに見えてしまうのです。

CM撮影の際にカットしたというその髪型。そのCMはチチが石畳の大階段を駆け下り、カメラが引きの画に切り替わると、階段の下にはスクーターが置かれています。結局それが何を売るためのCMかは分からなかったですが、あの石階段は“スペイン広場”を連想させ、次にスクーターは“ベスパ”だと直結できます。それは明らかに「ローマの休日」のパロディCM。そこに微笑むチチはヘップバーンそのものです。

「ローマの休日」に似せたCM。そして小説家の部屋に貼られたヘップバーンのポスター。意図的に仕組まれたような二つの演出。それらを組み合わせてみると二つの推論が立てられます。

一つは単純に小説家はヘップバーンが好きで、そんな彼の前に突然ヘップバーンに似たチチが現れてしまったので、恋に落ち、自分の価値観が変わってしまい、その感情が自分の“真理”を変えてしまった。という見方ができます。

チチが携帯電話を取りに戻ったとき、一度目に来たときは壁に貼られていたポスターが、なぜか戻った時は携帯と同じ机の上に置かれていました。このことは小説家がチチのことをヘップバーンに似ていると感じている証拠になるでしょう。そこから想像できるのは、小説家はチチに恋することで“死”を超えるほどの“真理”を悟ってしまい、あのような情熱的な告白ができたのではないかと推測できます。

また、もう一つ違う見方として、仮にチチが「ローマの休日」のヘップバーンを表していたとするならば、小説家の容姿は“真実の口”のモチーフに見えなくもありません。少し穿った解釈になりますが、しかしそのように捉えると、小説家の言葉に自分を偽る“嘘”がなく、それどころか“真実”を穢すような“嘘”や“偽り”などを嫌っている節が見受けられます。

それは彼の生き方を見ても分かるでしょう。彼は以前、恋愛小説家として様々な恋愛模様を書いて来ました。自分ではない誰かの“フリ”をして、大衆受けする物語を書いていたのです。そしていつしか“大同主義化”して行く自分の作品に疑問を抱き始めます。

世の中には虚しいと感じている人がたくさんいて、その虚しさを埋めるために僕の恋愛小説を必要としている人がたくさんいる。しかし僕の物語は麻薬だ。いくら作品の世界観に癒しを求めても、それは本当の意味での心の癒しにはならない。僕の話はすべてが嘘だから。嘘を並べているだけだから。そんな物語で人の心を治療できない。むしろ悪化させている。なぜなら現実を麻痺させているだけだから。だから僕の物語は麻薬なんだ… と言いたげに、彼は過去の自分の作品にとても強い嫌悪を抱いているようなのです。

テレビキャスターの妻と夫婦円満の“フリ”をしてる小説家が、自分自身への欺瞞に嫌気をさしていたことは、彼が自殺をしようとしていたことでも伺えます。そして自分の過去の作品に欺瞞を感じていることも妻との別れ話の中で想像できます。そんな自分の欺瞞に嫌気を指す小説家は、自分の心を治癒させるために、ただひたすら“真実”だけを追求しようとしているのではないでしょうか。

そんな小説家はチチに恋をします。それは彼の“真実”であり、本物の心の癒しです。チチはそんな小説家からの突然な告白に思わず逃げ出してしまいます。それを追う小説家。チチが乗るタクシーを後ろから追う小説家は、タクシーに急ブレーキをかけられ勢いよくぶつかってしまいます。

運転手「走っていてぶつかるのなら分かるけど、止まってぶつかるとは何事だ?」

チチ「止まったからぶつかったのよ」

小説家はこのチグハグな会話の中に“真理”を見つけたようで、運転手のことを「孔子様」と呼ぶようになります。小説家はその運転手に生きる為の“真理”を尋ねてみると、運転手は、

「生きているだけでいい」

とだけ答えました。それを聞いて小説家は歓喜します。小説家がその言葉の先にどれほどの価値を見し出したのかは想像できませんが、チチもそんな小説家と運転手(孔子)のやり取りを聞きながら、自分も「“真実”へ向かう道は一つじゃないんだ。色んな角度から捉えてもいいんだ」と、それらしい答えを見出せたようです。

その後チチはモーリーのところへ行き、愛想のよい“フリ”、他人に同調する“フリ”はやめて、自分の本当の気持ちでモーリーとぶつかり、本音を交わし、許し合います。

そしてミンとも本音で語るチチですが、ミンとは話し合いの末、互いに嫌いにならず別れよう、という結論に至りました。

互いに背を向け別れる二人。ミンはエレベーターに乗り込んだものの階数ボタンを押すことができません。数秒立ち止まり咄嗟に押した“開”ボタン。ドアが開くとそこにはチチが立っています。

感動です。
感情を抑えきれず二人は抱き合います。

「止まったからぶつかった」

チチが運転手と交わした無理問題のように、真実も未来も可能性もすべてが多様性の中にあり、答えは一つだけで成り立つのではなく、色んな角度から“真理”は導き出されます。

この群像劇はその角度の表れ

抱き合う二人もまた“真実”の表れなのです。


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購入したパンフレットの中に濱口竜介監督の解説が書かれており、その文中に本作と「牯嶺街少年殺人事件」との対比と類似点などが書かれていました。そして東京国際映画祭にて本作の上映後のトークイベントに出席されて、そこでもやはり「牯嶺街少年殺人事件」との相似を語られていたそうです。

実は僕も最初に観た時に同じことを感じており、今作には「牯嶺街少年殺人事件」との類似と対比が入り混じり、その差を見つめることにより、小四と小明の別の未来への可能性が描かれている気がしたのです。

そのこともここに記しておこうと思ったのですが、また長くなりそうなのでコメント欄に入れておきます。

とにかくこの作品を映画館で本当に観れて良かったです。他のエドワード・ヤン監督作品と比べたら会話の量が多く、情報も多く、ゆったりと落ち着いたカットは少なかったですが、それでも画角の美しさは健在で、あれだけの情報を効果的に纏められたのも見事な演出でした。

これで僕に残されたエドワード・ヤン監督の未鑑賞作品はあと数本。大切に見届けたいと思います。
ベイビー

ベイビー