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理想郷のJFQのネタバレレビュー・内容・結末

理想郷(2022年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

一見すれば「週刊●●」とかが特集しそうな「恐怖の実話!悪夢と化した”夢の田舎暮らし”」的な下世話ストーリーにも思える。

まとめてしまえば「夢の田舎暮らし」を思い描いてスペインの山村に移住してきたフランス人夫婦が、村の住人(馬飼いの兄弟)たちと軋轢を起こし、葬られてしまうまでを描く映画にすぎないのだから。

けれど、ヨーロッパ映画らしい「深み」を持ちながら撮られているので「アートな感じ」で観れてしまう(笑)

そんな「嫌味」はさておき。映画が描きたかった事は何か?制作陣は「週刊誌のような話」に何を込めたのか?

「人」と「獣」の複雑な絡まり合いを描こうとしたのだと思う。なにしろ映画の原題は「Beast(野獣)」なのだから。

その「複雑な絡まり合い」は冒頭シーンに示される。

映画は冒頭、スペインのガリシア地方で400年以上続いてきたある風習を描き出す。この地方では昔から馬が野生の状態で生息しているが、周辺の村では、馬の数を管理するため年に1度、野生馬をとっつかまえて焼き印を押すという。

映画はこの「ラパ・ダス・ベスタス」という「焼き印押し」のため、馬に飛び掛かる男たちの姿をスローモーションで映し出す。

もちろん、このシーンはクライマックスの伏線だ。映画では、このガリシア地方に「理想郷」を求め移住してきた男が、紆余曲折あった後、村の馬飼い兄弟に締め殺されてしまうのだが、冒頭シーンはそのフリになっている。つまり、主人公は「馬がシメられる」がごとく「シメられて」しまう。その暗示になっている。
また、そこには「お前が”理想郷”だと言うガリシアでは人々はこうやって生きてきたんだよ!!」という黒い皮肉も込められているだろう。

それはそうだが、もう少し素朴に観たい。普通にみたら、多くの人はこう感じると思う。「なんか馬がかわいそうだな」と(笑)。

そこには確かに「馬=獣」を管理する「人間」が描かれている。だが、素朴に観ればむしろ「人間」の方が、普通に生きてる馬に飛び掛かる獰猛な「獣」にみえる。そうみるなら「人」と「獣」がスパッと分けられなくなる。
これこそが、ストーリー全体の「暗示」なのだと思う。

さておき。ストーリーの序盤は、比較的「人」と「獣」が分かれた状態で進む。

主人公の夫婦は、元々フランスで教師をしていたが、様々な地域をハメをハズしつつ回るうち、この地を「故郷」だと思うようになって、移住を決めたという。そして、移住後は環境破壊を防ぐべく理性を働かせて有機農法を行い、グローバル企業を富ませるだけの風力発電事業を拒否する。

ここでは、夫婦は「人間的な人間」として造形されている。
「人間の特徴は”自由”にある」とは、カントでもヘーゲルでもいいが、近代哲学界隈ではよく言われることで。つまり、獣は本能や欲望に従うままだが、人間は違うと。人間は、欲望を満たすか、今は我慢するかも含めて自由に決められるのだと。「やることしかできない=動物」とは違い「やることもやらないこともできる=自由を持つ」のが人間なのだと。

その意味でいえば「自分のなわばり」に生きるしかできない動物とは違い、自由に土地を飛び越え、自分の意志で「故郷」でもない場所を「故郷だとする」主人公夫婦こそ「人間中の人間」といえる。

対して、「自分のなわばり(村)」から出る暮らしなど想像すら及ばず、テリトリーに入ってきた「新住民」には「敵意をむき出し」にする村の兄弟は「獣側の人間」だといえる。だからこそ、映画内で何度も描かれるように、主人公が飼っている犬(獣)は、彼ら兄弟の側に吸い寄せられていく…。

実際、彼ら兄弟は主人公の「自由(人間中の人間)」を「憎悪」している。どこにでも暮らせるが故に、異国の地ですら「故郷」だと思うことができる「フランス野郎」とは違い、兄弟はどこに行くこともできないが故にここに暮らしている(暮らすしかない)。

ここに暮らしているが故に(馬の臭いがしみ込んで)娼婦にすら相手にされない屈辱を味わっても、ここから離れることができない。できることと言えば、風力発電事業の補助金をもらって、今の貧しい生活を「延命」させることだけだ。

そんな人間達が今住む場所を「故郷=理想郷」などと思えるはずがない。
そうした「これしかできない人間」からしてみれば「あれもこれもできる」人間など「憎悪(怨念)」の対象でしかない。

だからこそ、「ノマド」と「マイルドヤンキー」でもいいし、「エニウェア族(どこでも行けるグローバルエリート)」と「サムウエア族(ここにしか居られない庶民)」でもいいが、両者は分かり合えず衝突を繰り返していく。

けれど、話が進むにつれ、分かれていた「人」と「獣」の線は次第に歪んでいく。

風力発電を巡る意見対立が激化する中、畑の水源に嫌がらせのバッテリーを放り込まれた主人公夫婦は、次第に「自分たちのテリトリーに入るな!」と荒れ始める。そして監視カメラなどを駆使し「テリトリー」を守るようになっていく。

テリトリーを自由に超えていく「人間」の中に、次第に「獣」が混ざり込んでくる。また、そうした視点でみれば、そもそも夫婦がやっている「有機農法」や「風力発電の拒否」も、不思議なものにみえてくる。

それは一見すれば「文明(人間)」を排して「自然のあるがまま(獣)を解放する」行動にみえる。だが、それをやっているのは「人間」だ。だとすれば、それは「人間的」なものなのか「獣的」なものなのか?

また、その視点でみれば、クライマックスの光景も不思議なものにみえてくる。主人公は犬と森を歩く中、村の兄弟に取り囲まれていることに気づく。「ヤバい…」と思うが時すでに遅し…。主人公は先述したように、兄弟に飛び掛かられ命を落とす…。

それは、人を「馬のように」殺める「野蛮な」光景だ。そんな行動に出る兄弟は「獣」そのものにもみえる。

けれど「テリトリーを主張する”獣”」と化した主人公を「管理」する行為だとすれば、それは「人間中の人間」のようにもみえる。

制作陣が、この「実話」を映画化したいと思った背景にあったのは、この「獣と人間が絡み合う、現代社会のわけのわかならなさ」にあったのではないか。

考えてみれば、現代の特徴をなす「グローバリゼーション」こそが、その最たるものだともいえる。何しろ、それは「テリトリーを超える」という「人間中の人間」的現象でありながら、「もっといろいろ見たい、もっといろいろ食べたい、もっと色々…」という欲望を解放する「獣中の獣」的なものでもあるのだから…。

つまり我々は今、極度に「人間中の人間」的でありながら極度に「獣中の獣」的でもある世界に住んでいる、と。

映画は「小さな村」を起点にその奇妙さに迫りたかったのではないか?
そんなことを思う。
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