浦切三語

マンティコア 怪物の浦切三語のレビュー・感想・評価

マンティコア 怪物(2022年製作の映画)
5.0
感想【動画版】
https://youtu.be/Z-pJnucF-fw?si=M7Cvza559MYNdWXb

この映画を観たのは今から二年前の東京国際映画祭の時だったが、観終わった直後の感想は「ワイの人生に余裕で食い込んでくる大傑作映画」だった。それから二年間、ことあるごとに、この映画は私の大脳の襞の奥で幽玄の如き存在感を放ち、実体化した衛星のように私の心の周りをぶんぶん飛びまわり続けていた。

そんな中、本作の公開が4/19に決定して、私はいま相当に浮足立っている。浮足が立ちすぎて地面から舞い上がってしまった勢いそのままに、試写もなんも見てない、二年前に鑑賞した当時の心そのままに、記憶の水底から、この奇怪な怪物の正体が一体なんであったのかを引き上げる試みを為そうと思う。

まず、私たちは大なり小なり、個人に程度の差はあれども、映画に対して何かしらの期待を抱いて映画館に足を運ぶものである。見たい映像、見たいストーリー、見たい演技、見たい演出……そうした「見せてくれるだろう」という観客側の無責任な期待に応えようとするのが、昔から変わらない娯楽映画の形たちである。言うなれば、娯楽映画はそのほとんどが、制作陣のレベルにおいて、観客の「この映像が見たい」という欲望によって形を変えられている事実を、甘んじて受けていると言っても過言ではない。

だが、カルロス・ベルムトは違う。『マジカル・ガール』でも『シークレット・ヴォイス』でも、そしてこの『マンティコア 怪物』でも、彼は観客の「見たい映像を”観たい”」という「欲望」を逆撫でするように、それらの欲望が求む映像の具体的なかたちを知りながら、それらをあえてハズしたような映像を余裕綽々で撮る。少年の部屋の火事を主人公が消火するシーンも、主人公が恋人と一夜をベッドの上で共にしようとするシーンも、お客さんが思う最大公約数での「見たい映像」からはかけ離れている。そして、主人公がVRゴーグルを使ってゲームに登場させる怪物をデザインするシーンも、それが主人公の主観視点で描かれるのは冒頭の掴みの場面のみで、あとはすべて客観視点からのロングショット&フィックス(カメラ固定)で撮影される。「え?そこ見せないの?」と、誰しもが疑問に感じる場面で、カルロス・ベルムトは堂々と「見せない」という選択を取る。現代の娯楽映画の摂理から言えば、これは異端であり蛮勇である。

だから初めに言っておくが、この映画は公開規模の小ささを鑑みても、ヒットしないだろう。それは繰り返しになるが、この映画が観客の「見たい映像を”観たい”」という感情を十全に把握しておきながら、あえて「見せない」という選択を取っているからだ。しかしその、一見無謀にも見える演出をカルロス・ベルムトが選択できるところに、彼が「映画の生理」を熟知している様を垣間見ることが出来るので、私なんかは鑑賞中ずっと戦慄したものである。

さて、この映画はポスターのキャッチコピーにもあるように「欲望」についての映画である。そのことを象徴するのが、タイトルにもなっている「マンティコア」なわけであるが、この「マンティコア」とは空想上の怪物である。なぜ恋愛サスペンス映画の本作に、こんなけったいなタイトルをつけたのか。鑑賞当時の私にはその理由がまるで思いつかなかったのだが、いまなら一応の答えは出せそうだ。

というのも、このマンティコアなる怪物は空想の怪物でありながら、そのパーツをよくよく観察してみると、使われているモティーフはすべて「現実に存在する動物たち」であることが分かる。これが何を意味しているかというと「クリエイティブ活動」「クリエイター」そしてなにより「フィクション」の象徴であるということだ。

空想世界を娯楽作品に落とし込むクリエイターなる職業人は「ゼロからイチを生み出す存在」だと多くの消費者たちが認識しているだろうが、無論、そんなものは幻想である。今の時代に完全なオリジナルなど存在しない。映画もゲームも小説も漫画も、全ては過去の作品の集積物であり引用の産物に過ぎないのだ(もしそこにオリジナリティなるものの影を感じ取るのだとすれば、それは創作者のメッセージ性やテーマ性、あるいは構造上の工夫にのみ伺い知れることが出来よう)。そして、ここで引用の対象となるのは、過去に制作された作品群に限定されない。当たり前かもしれないが、私たちの現実の世界もまた「フィクション」の世界に「引用」されているのだ。現実に起きた事件、現実に生まれた科学技術、現実に生きた人物、現実に生きる動物たち、現実に生まれた学問や思想……そうしたものを「引用」し「変節」させていくかたちで、クリエイターはフィクションの世界を創造する。現実の世界なくしてフィクションは生まれない。

そして、特に日本において生まれるフィクションで、いま一番アツいのが「アニメ」と「ゲーム」であることに疑いの余地はない。国の経済すらも左右する一大産業となったこれらのフィクションは、現実を引用するかたちで落とし込まれる際に、その多くが記号化(デフォルメ)される。最近あんまり聞かなくなったが、いわゆる「萌え」なんかはこれに当てはまる。特に日本のアニメやゲームは「萌え文化」という言葉に代表されるように、現実に存在する人間をデフォルメ(記号化)させるのに、まったくの躊躇がない。

日本のアニメやゲーム、漫画に造詣の深いカルロス・ベルムトは、そこに目を付けて本作を制作したのだろう。この映画は、日本人こそ観るべき映画だ。それは単に「魔界村」や「伊藤潤二の作品」などのオタクが喜びそうな小ネタが仕込まれているからというのではなく、そうした「記号化されたキャラを欲望のままに貪ることになんら抵抗のないオタクたち」に対する痛烈な批評として、この映画が機能しているからに他ならない。

この映画の主人公は中盤において、あるショッキングな行動を取る。映画の終盤に関わる重要なシーンなのでネタバレは控えるが、あのシーンひとつでこの映画を「異常性愛者の悲劇」として観るのは、いささかもったいない鑑賞態度であると、僭越ながら申し上げたい。あのシーンが意味しているのは、まさに前述した日本のオタクたち、あるいはオタクたちに萌えの栄養を無制限に供給しているクリエイターたちが日夜無自覚に行っている「現実を引用して記号化し、フィクションに落とし込む」ことで自らの欲望を満たそうとする、誤解を恐れずにいれば「あさましい行動」に他ならない。あのときの主人公は「私」であるのと同時に、この国に大量に存在するであろう、ライト/ディープを問わない「有象無象のオタクたち」そのものであるのだ。

この主人公はゲームクリエイターとしては、ほとんど完璧だ。完璧なまでに、生きた人間を記号化し、自らの欲望の対象とすることに躊躇がない。彼が付き合うことになる美大生が、あの少年と、その髪型の類似性に注目した上で似たような存在として描かれているのは、偶然の一致ではない。現実を記号化して自らの欲望を満たす主人公は、まさに「記号」すなわち「外見上のパーツ」に注目するということでしか、人を愛する術を持たず、そのことに無自覚であるというのが、さらに泣けてくる。彼が少年の母親からのアプローチを無下にしているのは、彼女の「外見」が自分にハマらないからだ。人の内面を見る前に、人の外見だけですべてを判断する主人公は、ここぞという時に、愛する人の内面を捉えることができない。美大生に降りかかる悲劇を前にして、ありきたりなことしか言えない主人公に、その傾向が最も現れている。「出ていって」と冷たくあしらわれても、なぜ彼女がそんな態度を取るのかわからない。人の気持ちがわからない。それはコミュニケーション能力の低さによるものではない。現実を記号化するという、本来なら多くの消費者たちから尊ばれるはずの「クリエィティブ」という沼に、彼が肩まで浸かっているからこそ、起こる悲劇なのである。

「クリエィティブとは、フィクションを生み出す行為とは、果たして無条件に賞賛される行為なのか」――その問いかけを、ほかならぬ「映画」という「フィクション」を通じて観客に伝えてきている時点で、この映画はカルロス・ベルムト本人にとっての自己言及的な側面を持つ映画であるのと同時、私のようなオタクな観客たちに対する言及であり批評でもある。その帰結として待ち受ける、穏やかで、素っ気なくて、しかし凄絶としか言えない衝撃のラスト。当時、私の隣で鑑賞していた外国人のカップルは、この映画のラスト(正確にはラストシークエンス手前のシーン)を観たときに、小さな悲鳴を上げていた。それくらいの衝撃を私も受けた。いままで「見たい映像をあえて観せない」というトーンで撮ってきていた反動であるかのように「お客さんが嫌がる映像を平気な顔して見せてしまう」という、あのラスト。大変にシビれた。こんな演出があるのかと舌を巻いた。

そして同時に、あのラストシーンが意味しているのは、主人公の「挑戦」の結果なのだともいえる。普通に見ている限りでは、主人公は開き直ったからこそ、あのアパートの門の前に立ったように思える。その門越しの主人公を逆光気味に捉えるカメラは、まるで主人公そのものを「怪物」として捉えているように見える。

だが、私はこう考えたいのだ。『まどマギ』にインスパイアされて傑作『マジカル・ガール』を撮ったベルムト監督のことだ。このシーンは、現実の出来事をフィクション……ここでは主人公の略歴を鑑みてRPGのような演出をしたと考えてみよう。すると不思議なことに、見方が変わる。主人公は、あのアパートの門の前に立った時に、RPGで言うところの「冒険者」となったのだ。目指すのはアパートという名の「ダンジョン」。その最奥に潜む自らの欲望すなわち「マンティコア(怪物)」を退治するために、彼はあの門の前に立ったのだ。そのようなメタファーを活用して紐解いていくと、この映画は俄然面白さを増していく。

現実はフィクションとは違う。主人公は剣も魔法も手にすることなく、自らの「欲望という名の怪物」と向き合った。その結果がどんな帰結を迎えようとも、私は主人公の行動の結果を笑うことなどできない。私を含め多くのオタクたちが、自らの「あさましい欲望」から目を背け、なんだかんだと言い訳をしながら、今日もお気に入りの二次元キャラで自分を慰めている。そんな私と比較したら、この映画の主人公は、非常に立派で勇気ある人物なのだ。そうとしか、言いようがないじゃないか。

とにかく、とんでもない大傑作映画である。
浦切三語

浦切三語