ナガエ

マンティコア 怪物のナガエのレビュー・感想・評価

マンティコア 怪物(2022年製作の映画)
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いや、これは何とも重苦しい物語だった。「ある要素」さえ描かれなければ、「よくある恋愛物語」にしか思えないような展開なのだが、「ある要素」が含まれることによって、城がじわじわと崩壊していくような感覚に陥る。いや、それも違うか。正直、その「ある要素」がどう物語に関係してくるのか、終盤になるまで正直理解できていなかったため、「ぼんやりとした不安感」みたいなものにずっと支配され続ける作品と言えばいいだろうか。

本作の興味深い点は、「よくあるテーマを描いているにも拘らず、今までとは違う形で可視化されるようになった状況をベースに描き出している」ということだと思う。本作では、「VR空間でクリーチャーをデザインするゲームデザイナー」が主人公であり、この設定にかなり意味がある。さらに言えば、「リモートワークが当たり前になった社会変化」もまた、本作にとっては重要な要素の1つと言えるように思う。

そのように考えると、本作で描かれる状況は、数年前であれば可視化されるようなものではなかっただろうと思う。それが良いことなのか悪いことなのかは、よく分からない。本作での展開だけ見ると「悪いこと」と判断せざるを得ないが、「可視化されること」が良い方向に転がるような状況だって想定できるはずだ。

問題は、本人がその「可視化」を望んでいるかどうかだろう。そして本作の主人公は、間違いなく望んでいなかったと思う。だからこそ不幸な物語として提示されているのだし、そのような展開に少し圧倒されてしまった感じもある。

さて、少し違う話をしよう。僕自身は観たことはないのだが、『PSYCHO-PASS』というアニメがある。なんとなく設定を知っているだけだが、確か「人間の測定可能な様々な数値を集約し、それらを元に『犯罪に手を染めそうな者』は、罪を犯す前に裁かれる」という世界が描かれているはずだ。

さて、あなたはこのような世界を許容できるだろうか?

それまで人間はずっと、「言動として現れた『思考・価値観』によって他者を罰する」という世界に生きてきた。これは要するに、「どれだけ悪い思考・価値観であっても、それを”持っている”というだけでは処罰されない」ということでもある。例えば、どれだけ「銀行強盗をしたい」と思っていても、単にそのことだけでは罰せられはしないというわけだ。テロ行為などでは「準備罪」などが設けられてもいるし、そういう意味では例外もあるが、基本的には「言動で他者を罰する」というのが当たり前と言えるだろう。

さて、それは当然「国家による処罰」である。では、「個人間の処罰」はどうだろう? 例えば、自分の友人が「銀行強盗をしたい」と思っていることを知ったとする。単にそう思っているだけで、別に計画などはしていないとして、あなたはその友人と距離を置くなどの判断をするだろうか?

この辺りは、なかなか難しいだろう。今は「銀行強盗」を取り上げたが、それがどんな思考・価値観なのかによっても変わるだろうし、一概に答えは導けないように思う。

ただ、僕の個人的なスタンスとしては、「言動として現れるまでは保留」という感じで他者とは関わりたいと思っている。それがどれだけ「抱くべきではない思考・価値観」だとしても、それが思考・価値観に留まっている以上は、その他者のことを排除したりはしたくない、と思っている。まあ、実際にそのような状況に直面した場合にどう感じるかは分からないが、今のところそのように考えている。

さて、僕のこのスタンスを踏まえれば、本作の主人公であるフリアンは全然セーフである。彼は「思考・価値観」のまま留めようとした。色んな描写から、そのことは伝わってくるはずだ。確かに、テクノロジーや社会の変化によって、彼自身は「正しくないこと」をしたかもしれない。しかし、彼自身口にしていたように、「誰も傷つけていない」というのも確かだと思う。

この辺り、一般的にはどう受け取られるのだろうか。

本作は、「善悪の境界線」のラインを絶妙に衝いてくるように僕には感じられた。本作を観て「許せない」と感じる人もいるだろうし、僕のように「これはセーフでは?」と感じる人もいるだろう。絶対悪でも絶対善でもない絶妙なところを衝いているからこそ、心をざわつかせる物語になっているのではないかと思う。

しかし僕には、「フリアンが悪」だとみなされる世の中は、ちょっと厳しいなと思う。これはつまり、「『悪い思考・価値観』は、持つことさえ許されない」ということになってしまうからだ。それは、辛すぎないだろうか? 思考や価値観は、生まれや生育、あるいは様々な人との関わりの中で構築されるものであり、本人だけの問題とは思えない。もちろん、「悪い思考・価値観」を言動に移してしまうのは本人の責任だが、「ただ持っているだけ」であれば許されてほしいというのが僕の考えだ。そうじゃないと、生きていくのが辛すぎる人もたくさんいるんじゃないかと思う。

会社からの対応については契約だから仕方ないとはいえ、そうではない部分については、フリアンのように「言動に移していない人」は許容されてほしい、と感じてしまう。ただこの考えの最大の問題は、「言動に移した時点で、被害が発生してしまう」ということだ。そしてそうならないように、「思考・価値観の段階で摘み取ろう」と考えるわけだ。まあ、それも分かる。そりゃあ、被害なんて出ない方がいいに決まっている。しかしなぁ、と個人的には感じてしまうのだ。

内容に入ろうと思います。
ゲーム会社で働くクリーチャー・デザイナーであるフリアンは、普段は自宅でVRゴーグルを付け、VR空間上で怪物や獣のデザインを行っている。ある日仕事中、「助けて」と声が聞こえるので見てみると、隣室が燃えていた。慌てて隣家のドアに向かうと、少年が出られないと叫んでいる。フリアンはどうにかドアを蹴破り、火も消し止め、少年は怪我もなく無事だった。

駆けつけた医師からは、簡単な診察を受け問題ないと診断されたが、もし胸や呼吸が苦しくなるようなら病院へと告げられる。そしてしばらくして彼は息苦しさに襲われ、どうにか病院まで足を運ぶも、受付で失神してしまった。しかし、火災の煙を吸い込んだ影響ではなく、パニック障害によるものだろうと診断された。フリアンは抗うつ薬を処方され、1日1錠飲むように言われた。

ある日、同僚のサンドラの誕生日パーティが開かれ、そこでサンドラの友人・ディアナと出会った。彼女は美術史を学ぶ学生だそうで、2人で美術館に行ったり食事をしたりするようになる。お互いに惹かれ合っていることが分かり、どんどんと距離が縮まっていくのである。

そのまま、何事も起こらなければ良かったのだが……。

冒頭でも書いたように、「ある要素」さえ描かれなければ、フリアンとディアナの恋愛物語にしか思えない作品だ。ディアナが登場してからは、物語のほとんどがフリアンとディアナの関係性を描き出す場面として映し出される。様々なことが、ディアナとの関係性の描写の合間に仄かに描かれるだけなので、フリアンが「ある要素」に対してどう考え、どう対処しているのかは、なんとなくしか分からない。しかしそれでも、彼が「常に抑制的でいようと努力している」ことは伝わってくるし、本当に、そのまま何も起こらずに平穏なままでいられる可能性もあったと思う。

しかし、色んな要因からそうはならず、フリアンは思いがけない状況に陥ることになる。このような物語を描き出すことで、社会に是非を問うような作品に仕上がっているように思う。

さて、個人的に上手く捉えきれなかったのが、ラストの展開だ。正直なところ、ディアナの感覚が僕には分からなかった。どういう理屈でああなったんだろう? もしかしたら、と僕が考えたのが、「ある種の代理型ミュンヒハウゼン症候群」という可能性だ。「代理型ミュンヒハウゼン」とは明らかに違うので「ある種の」と付けたが、「そのような状態であることが自身の穏やかさに繋がる」みたいな人なのかもしれない。そうとでも考えないと、彼女のラストの決断や言動が上手く捉えきれないんだよなぁ。どうなんだろう。

あと、本作には「日本」的な要素がちょいちょい出てくる。鑑賞後に公式HPを読んで知ったが、監督は超が付く日本オタクなのだそうだ。だから作中には、「寿司」「ウナギ」や「日本語のYouTube」などが出てくるのだが、中でも一番驚いたのがピアノを弾くシーンだ。なんか聞き覚えのある曲だと思ったら、「太田胃散のCM」で流れる曲なのだ。しかも、「このシーンで太田胃散のCMの曲かよ!」という状況であり、日本の観客を笑わせに掛かっているとしか思えない。映画の制作陣もきっと、これが「日本の有名なCM曲」だなんて知らないだろう。物語全体にはまったく関係ない、日本人にしか気付けないポイントなので、監督が趣味でぶっこんだとしか思えない。

色んな意味でざわつかせる物語で、非常に興味深い作品だった。
ナガエ

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