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たまねこ、たまびとの海のレビュー・感想・評価

たまねこ、たまびと(2022年製作の映画)
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小西修さんが、長い救済活動を通して世界は少しでも変わったかと聞かれたとき、変わっていないと言い、終わらないと言い、自分が死んだあとも続くんだと言い、そのかおや背景の河川敷の姿を見ながら、この90分で映され語られてきた「それでもやっていくしかない」ことたちひとつひとつ、一秒一秒の重みをこの身が潰れそうなほど感じ、それまで悲しみと悔しさで流れていたはずの涙が、こういったひとたちがこの世界に居てくれることへの安心の涙になって、そしてエンドロールを見つめながら、このひとたちとねこたちがただ生きるためだけに闘いと表現するほどの努力と苦痛を強いられていることへの、やはり悔しさの涙になった。家に帰ってねこたちを抱きしめた。すべてのひとに、この温かさとやわらかさを伝えられたらいいのにと思った。こんなに小さくても立派に生きているひとつずつのこのいのちの尊さを分かってもらえたらいいのにと思った。この子たちが、お腹が空いたときご飯を食べることにも安心して眠ることにも気ままに甘えることにも決して困ることなく、本当にできるかぎり苦痛を感じることなく生きていてほしいといつもいつも祈る。世界中の悲しいことや苦しいことや痛いことやつらいことやさみしいことから一番遠い場所にいてほしいと祈る。どれだけ考えても、自分には、ねこたちを何が起こるか分からない場所に捨てることも、虐待をすることも、物として扱うことも、代わりが利くペットだとされることも、その意味も理由も、納得できないし、理解できない。小西美智子さんが、人が好きなんですと言ったとき、驚いたというか、本当に凄い以外に言えることがなかった。ここまでの闇に触れてきてなお、誰かに伝えようとすること、その“伝わる”という希望を失わずいることは、どうすればできるのだろうかと思った。少なくとも今の自分には絶対にできないことだった。たくさんのことに目を向けたくても本気でやるならばたった一つに向かっていく他ないということや、動物たちを物として扱う規範が人間に何を許してしまっているのかということ、本当に考えても考えても答えなど出ずに彷徨い続ける感情に意識を向けるとき、わたしは確実に、逃げていると思う。いろんなことから、“絶望する”という方法で、逃げ続けていると思う。このひとたちがわたしに見せてくれたのは希望だった、絶望を知っているひとの希望だった。それはねこたちの愛おしく重たいいのちという光で、そしてわたしたちの平等に尊いいのちという光だった。守りたい命が、虐待され、その末に殺されている事実を直視し、向き合っていくことが、どんなに恐ろしいのか、想像のしようがないほどのそれを想像する。ねこたちは人に叩かれた翌日にも人を信じて人のもとへ来る、なぜ許してくれるのかと人としてわたしはおもう、どんな目にあってもただ生きていこうとする姿が信じられないほど眩しく立派で涙が止まらなかった。 悲しんだり怒ったりはできても、何もできない人はたくさんいる。自分もその中の一人だ。伝えることは思うことよりも何倍も難しいから、わたしは日々闘いを諦め続けているし、負け続けているのだと思う。だけどただ、何もできない人を、少しでも何かできる人にしてくれるのが、こういった活動家や、本当の芸術家の人たちなのかもしれないと最近はよく考える。小西さんが、写真家であることを通して救済活動について語ること自体が、大きな意味を持ってわたしたちのもとまで届く。望むだけでは何も変わらないし、祈るだけでは何も得られないことはわかっている。わかっていてもわたしはそれをやめない。話すことをやめない、さがすこともやめない。ここに映画があり、物語としてねこたちの一生が語られ、写真として河川敷の姿が映される、そういった窓を通してわたしたちは世界を見る。自分は表現者であるか、そうでないならば観客であるか、どんなかたちでも、その場所を見ていることが、少しでも世界の変化に繋がるのではないかとわたしは考える。今のわたしには、多摩川のねこたちの顔を毎日見てご飯をあげることはできない。ただ家のねこに不自由のない暮らしを与え続けることはできる。今のわたしには、ホームレスの方々を救済することはできない。ただその活動への寄付をすることはできる。今のわたしには、世界を変える力などない。ただ、それを望むひとたちと、手を取り合うことはできる。 これを書いているわたしの手は、電車で吊り革を掴んでいたわたしの手は、膝の上でパンフレットをめくっていたわたしの手は、わたしの大切なねこを何度も撫でてきた手で、抱いてきた手であることを思う。やさしい手になりたい、死ぬまでずっと、やさしい手でぜんぶをしたいよ

できるだけ多くの人に観てほしい作品です。
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