KnightsofOdessa

エリザベート 1878のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

エリザベート 1878(2022年製作の映画)
3.5
[シシィ神話の現代的な解体] 70点

ウィーンに行くとオーストリア皇后エリーザベト、通称"シシィ"を至るところに目にする。街のお土産屋では食べ物から置き物まで様々な形状のシシィがいて、宮殿のショップなんかシシィしか居住者が居なかったのか?というほどの贔屓っぷりに驚かされる(私も眼鏡ケースを買いましたが)。しかし、そんなシシィも基本的にはフランツ・ヴィンターハルターによる若かりし頃の肖像画がグッズ化されているに過ぎず、彼女のその後の人生は人々の記憶から抹消されているかのようだ。シシィといえば、ロミー・シュナイダーが演じたシシィ三部作も有名だが、これも(というかこれが?)シシィの若かりし頃を描いている作品で、ロミー・シュナイダーの人生すらもシシィ的なイメージによって食い潰されてしまった。ちなみに、同作は今でも欧州では根強い人気があるらしい。そんな20世紀欧州最大のアイコンともいえるシシィの中年時代についての映画が本作品だ。時は1877年、エリーザベトは40歳の誕生日を迎えた。フランツ・ヨーゼフとの結婚以来、ずっと彼女のことを虐めてきた伯母で姑のゾフィー大公妃が死んで5年が経っても、王宮は息苦しい場所に他ならない。彼女は王宮のあるウィーンにはほとんどおらず、溺愛する末娘マリー・ヴァレリーを連れてハンガリーやイギリスへと旅し、マリーにはハンガリー語を教え込み、自分はバイエルン王となった従甥ルートヴィヒ2世を訪ねる。彼女の周りにはお気に入りの侍女が常に居て、彼女たちを引き連れて各国を周遊しているわけだが、本質的な孤独が解消されるわけではない。それでも、終盤のある種修正主義的な歴史改変によって、彼女の物語は現代の風景や音楽と時代錯誤的に混ざり合い、自身のアイコンであるコルセットを侍女マリー・フェシュテティッチに託して自分は解放されるという終盤は、確かにパブロ・ラライン『スペンサー』と比較されるだけある。時代錯誤的な改変はソフィア・コッポラ『マリー・アントワネット』とも比較されていた(私は未見なので分からず)。

興味深いのは、クロイツァーが上記シシィ的イメージを破壊する過程で、その人物像をヴィッキー・クリープスの方に寄せていることだろう。それによって、歴史上の人物の物語を時代錯誤的に改変することをある種正当化した上で、自分を消費しようとする全てに中指を立てる一人の女性を鮮やかに生き返らせている。こういった試みはどれも上手く、シシィのどん詰まり感と映画そのものの鈍重さは上手くリンクしているのだが、どうも全体的なもっさり感は拭えず。

二人が本当に出会っていたのかは謎だが、作中に"映画の父"であるルイ・ル・プランスが登場し、シシィの映像を撮るという場面がある。当時は音声を同時録音できなかったので、"じゃあ撮影中は何を話しても良いのね"として何かを嬉しそうに叫んでいた。後に自分の肖像画を描く画家に対して"映画を知ってるか?"と訊くなど、本作品の一つのテーマとなっている。それは美化された物語ではなくありのままの自分を映してほしい/残してほしいという願望か。
KnightsofOdessa

KnightsofOdessa