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エリザベート 1878のchiakihayashiのネタバレレビュー・内容・結末

エリザベート 1878(2022年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

 皇妃エリザベート(1837−1898)。シシィという愛称と白いドレスに豊かな髪を垂らした有名な肖像画を知る人は多いだろう。16歳の時、ヨーロッパ随一の伝統と格式を誇るハプスブルク王朝のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められて結婚。皇帝が元々は長姉との見合いの席で妹である彼女に一目惚れしたのである(この事実からして、エリザベートが例えば宝塚歌劇団の舞台になるのは諾なるかな)。

 先立つ1848年にパリに続いて起きたウィーン革命が鎮圧された後に18歳で即位した皇帝フランツ・ヨーゼフは新絶対主義を唱えていた。が、エリザベートが30歳になろうとする頃、ドイツ統一を巡ってのプロイセンとの戦争でオーストリアは惨敗、妥協の産物としてハンガリー・オーストリア二重帝国が発足した。エリザベートはハンガリー貴族のアンドラーシと手を組んで陰でこの「妥協」を進め、ハンガリーで産んだ末娘はアンドラーシの子ではないかとの噂が立った。

 本作は彼女が40歳になった1年間に、もろもろの史実を凝縮させて描く。40歳とは当時の平民女性なら平均寿命、言い換えればもう老年にあたる。エリザベートは自らの容姿の衰えを過剰なまでに気に病み、コルセットでウェストを締め上げ、スライスしたオレンジやミルクだけといった食事制限に、冷水浴や吊り輪など、美容と体型維持にいそしむ。が、それも早々と限界点に至るのは当然か。

 また、密かに想いを寄せていたイギリスの馬術家との関係を、息子の皇太子に「立場をわきまえて欲しい」と諭されて動揺したエリザベートは、乗馬は得意だったにもかかわらず、落馬してしまう。そして「どうしてあんなに賢くて強い馬が射殺されなければならないの!?」と泣き叫ぶ。射殺された馬はエリザベートの自由への止みがたい衝動を託されていた存在だったのだ。

 夫である皇帝は彼女にただただ「象徴」であることを求め、彼女が「サラエボは?」「セルビアは?」と口にするだけで激高する。夫とのベッドシーンはいずれもいかに夫婦がすれ違い、関係が冷え切っていたかを無惨に示唆する。エリザベートは「ババリアの狂王」と呼ばれた従兄弟ルードウィヒ2世と互いに窮屈な身の上を嘆き合うも、彼女の身心が満たされることはない。

 中指を立てたり医師にアッカンベーをしたりしながらも彼女がウツ症状に陥っていたのは疑い得ない。遂には膝まで届く自慢の豊かな髪を自ら切り落とし、公務には女官を影武者に仕立てるまでになる。

 史実を繙くと、息子の皇太子ルドルフは、1889年に妻子ある身でさる男爵令嬢と心中する(エリザベートの物語だけでなく、このルドルフの物語も『うたかたの恋』として宝塚歌劇団で何度も上演されている)。以後、喪服を脱ぐことはなかったというエリザベートは1898年、スイスでイタリア人の無政府主義者に刺殺される。享年60歳。1914年、夫の甥で帝位継承者だったフランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺され、第一次大戦勃発。1916年、夫フランツ・ヨーゼフ死去。

 本作の企画は、主演のヴィッキー・クリープスが引き続き一緒に仕事をしたいと強く思った監督にかねてから関心があったエリザベートの話をしたのが始まりだったという。
 この女優さん、私は『マルクス・エンゲルス』(17年ラウル・ベック監督)で若きマルクスの愛妻に扮したときから、その独特の知性的で新鮮な個性に注目してきたのだけれど、彼女の存在感と演技力なしにはこの映画は生まれなかっただろう(現代的な確とした自我が芯にあると感じさせる点で、フェミニズム批評の観点からはケナさざるを得ない『福田村事件』で私が唯一瞠目したコムアイにも通じる。こういうタイプの女優さんが現れる時代になったのだ)。

 この作品はソフィア・コッポラ監督が2007年に発表した『マリー・アントワネット』に継いで、多くの女の子たちが内面化する〝お姫様願望〟を脱構築する−−−−ジワリと内側から解体する−−−−契機となるものだと私は考えたい。

 贅沢三昧の豪奢な宮廷生活に縁取らせるようにマリー・アントワネットが抱える空虚を浮かび上がらせた『マリー・アントワネット』では、彼女がフランス革命でベルサイユ宮殿を追われるところで終わっていたが、観客はその後の王妃の運命を知っている。

 一方、この『エリザベート 1878』では壮麗なウィーン宮廷は最初から最後までまさに「冷たい牢獄」でしかないように描写され、最後、髪を切って少女のような横顔を見せたヒロインは究極の自由への飛翔を試みる。

 女性映画人たちが渾身の力で再創造したこの〝プリンセス〟たちを女性たちはもはやあこがれの眼差しで見ることはないだろう。かといって、同情しこそすれ、軽蔑したり否定したりする気持ちにもなれない。言わば一度は共感を込めてしっかりと抱き締めた後にサヨナラを告げる−−−−そんな映画体験なのだと思う。
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