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ほの蒼き瞳のkuuのレビュー・感想・評価

ほの蒼き瞳(2022年製作の映画)
3.8
『ほの蒼き瞳』
原題 The Pale Blue Eye.
映倫区分 G
製作年 2022年。上映時間 129分。
[Netflix作品]
『ファーナス/訣別の朝』などのスコット・クーパー監督とクリスチャン・ベイルが3度目のタッグを組み、ルイス・ベイヤードのミステリー小説を映画化。
19世紀アメリカの陸軍士官学校で起きた殺人事件を捜査するため、元刑事が一人の士官候補生と協力して事件の真相を追う。
後に作家として知られることになる若き日のエドガー・アラン・ポーを『キーパー ある兵士の奇跡』などのハリー・メリングが演じるほか、ジリアン・アンダーソン、ルーシー・ボーイントン、シャルロット・ゲンズブール、ロバート・デュヴァルらが出演する。

1830年の冬のある日。アメリカ・ニューヨーク州のウエストポイント陸軍士官学校で、心臓をくり抜かれた士官候補生の死体が発見される。
学校の評判が悪くなることを恐れた幹部たちは、引退していた元刑事オーガスタス・ランドー(クリスチャン・ベイル)に内密に捜査を依頼する。調査を開始した彼は、風変わりな士官候補生エドガー・アラン・ポー(ハリー・メリング)に協力を求め、二人で事件の真相を追う。。。

余談から始めます。
映画のタイトル(英題)"The Pale Blue Eye."は以下からきてる。
『彼の片方の目はハゲタカの目に似ていて、青白く、その上に膜が張っていた。
その眼が私の上に来るたびに、私の血は冷たくなった。
だから、だんだん、だんだん、私はその老人の命を奪おうと決心し、そうしてその眼を永久に取り除くことにしたのだ。』
ちゅうエドガー・アラン・ポー『告げ口心臓』原題はThe Tell-Tale Heart)(1843年)より。
故に、個人的には原題そのままにしてくれた方が良いか、和訳『ほの蒼き瞳』がいいかなぁなんて思いつつ視聴開始。
スクート・クーパーは、まさに新進気鋭の質の高い監督かな。
スコット・クーパーとクリスチャン・ベイルは『ファーナス/訣別の朝』『荒野の誓い』と良好なパートナーシップを築いていると云えるかな。
今作品は最初から最後まで非常にサスペンスフルでありながら、次から次へと出てくる台詞に急かされることなく、常に観客に考える余地を与えてくれました。
また、予想もしなかったような驚くべき展開がいくつか用意されていた。
プロットは巧みで、脚本も良かった。
犯罪のストーリーはオーソドックスなものやったけど、過信や創作ではないようで楽しめました。
プロットは繰り返しになりますが、良かったし、すべての手がかりや捜査、会話についていける。登場人物も皆信頼できそうで、それも当時の現実の生活から直接出てきたものやろうな。
1830年、冬の雪に覆われたニューヨーク郊外という設定はとても雰囲気がよく、雪や霧、昼と夜で陰鬱なイメージを与えてくれました。
捜査官役のクリスチャン・ベイルとエドガー・アラン・ポー役のハリー・メリングを筆頭に、俳優陣の演技は非常に相性が高かったし、説得力があった。
脇役の俳優・女優もそれぞれの役柄に説得力があったかな。
全体として、個人的には善き歴史犯罪ミステリースリラーでした。
犯罪小説はこうでなくっちゃ。
結末はわかっているけれど、また観たくなるやろな。
まぁ、個人的に欠点をつけるとしたら、違う日に見たら感想も変わるかもしれないけど、今日の感覚では、『音楽』(サントラ)が映画の緊張感やミステリー感を下げてるように感じた。
シンプルな音楽でも良かったし、スリラーなシーンではむしろ音楽を使わない方が映画に引き込むことができるものもあったんちゃうかな。
とは云え、そんな個人的な部分を入れても楽しめた作品でした。

今作品はエドガー・アラン・ポーを多少知ってたら、も一つ面白味が増すんちゃうかと、今作品と彼について徒然に。
そもそも、いつ、何処で、何故ミステリー好きになったんか。。。?
思い出せない。
トニモカクニモ分かってんのは、ガキの頃に探偵さんが登場する小説ちゅう淫靡で恐るべき娯楽と出会ってしまったこと。
それから食い入るように、舐めるように、読み、読み読み回した。
もちのろ~ん、
人間離れした怪力で母娘が殺される事件が起きる、しかも現場は密室。謎の事件の解明に、オーギュスト・デュパンが乗り出すなんて、世界で初めて書かれたミステリーとされとる、エドガー・アラン・ポーによる短編『モルグ街の殺人(The Murder in the Rue Morgue)』(1841年)を読んで大人びた己に自己満やったことは確か。
余談ながら、
今作品のキャラのオーガスタス・ランドールは、ポーの最後の短編小説『ランダー(ランドール)の別荘』"LANDOR'S COTTAGE" )1848~49)
からそう名づけられたそうですよ。
そして、現に、登場人物のランドールは、確かにコテージに住んでいる。
ポーの短編では、コテージとそれが建てられた渓谷のすべてが描写され、この家の女性も簡単に描かれているが、コテージの持ち主であるランドール自身の詳細については、奇妙なことに一切無視されている。
このような名前をつけたのは、物語の終盤でポーがランドーとの関係を不安に思い、またランドーを複雑に賞賛していることの伏線かな。
そんなポーの作品群は、陰鬱で、うしろメタファーで、そして、幻想的で詩的な世界が多く、出会った時はライデイン、いや、メラゾーマを受けたような衝撃を受けた(あくまでもライティンはドラクエの世界呪文やけど)。
映画では、古典サスペンス仕立てな作品はしばしば出会う。
今作品のように。
そんな時、ガキの頃の衝撃を嬉しくもありこっ恥ずかしくも思い出す。
かくして、今作品に触れポーを久しぶりに目にした。
エドガー・アラン・ポーは小説家でたけではなく、詩人として小説家として評論家として、さらには編集者として、文学史上に多大な足跡を残した偉人。
それだけに、数々のポー作品は、映画や音楽の世界にも大きな影響を与えてる。
幻想性・神秘性・悲劇性、そして何より美に執心した意識は、モノ作りの方々でイマジネーションにとりわけ火をつけてる。
実際、20世紀以降になるとクラシックやオペラの世界でもポー作品を題材とした楽曲が次々と作られてる。
ドビュッシーは、未完となってるが、『アッシャー家の崩壊(The Fall of the House of Usher)』(1839年)とかオペラ化を構想していたちゅうし、ホルブルックなどは数十もの楽曲をポー作品を題材にして作曲している。
我が愛しきラフマニノフも『鐘楼の悪魔(The Devil in the Belfry)』(1839年)を楽曲化している。
また、先にも書いたように、彼の描く詩はかなりイッちゃってる。
蒼くさいチェリーボーイ時代のポーがでる今作品に向け、彼がいかにイカれた詩を書くか、参考までに抜粋し、終わりますぅ。

エドガー・アラン・ポーの詩「勝利の蛆虫」The Conqueror Worm(壺齋散人訳)

  見よ わびしい末世の
  祭りの夜に
  羽を畳んだ天使たちの一群が
  ヴェールの陰で咽びながら
  とある劇場に腰掛けて
  希望と恐怖の一幕を見ている
  オーケストラがとぎれとぎれに
  天上の音楽を奏でている

  役者たちは神の似姿をして
  もぐもぐと低い声でつぶやきながら
  あちこちと動き回るが
  所詮は操り人形に過ぎず
  巨大な亡霊に操られているだけ
  亡霊の意思が舞台を動かし
  ハゲタカのような翼をはためかせ
  不可視な悲惨を振りまいているのだ

  こんな道化芝居でも 決して
  忘れられるものではない
  亡霊の正体をつかもうとしても
  つかまえることができない
  それはぐるっとひとまわりして
  また元に戻る円のようなもの
  狂気や罪悪そして恐怖が
  この芝居の眼目だ

  だが見よ 道化を蹴散らしながら
  舞台に這い出てきたものがある
  血のように真っ赤なものが
  うめきうめきながら  
  闇の中から現れる
  それはのたうちまわりながら
  道化たちを餌食にする
  天使たちは人間の血で赤く染まった
  蛆虫の姿にぞっとするのだ

  明かりが消えて闇が広がると
  震える道化たちの頭上から
  葬送のとばり カーテンが
  嵐のような勢いで下りてくる
  それを見た天使たちはすっかり青ざめ
  立ち上がりヴェールを脱ぐとこう
  叫ぶのだ
  これは人間という題の悲劇
  主演者は勝利の蛆虫だと
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