浦切三語

梟ーフクロウーの浦切三語のレビュー・感想・評価

梟ーフクロウー(2022年製作の映画)
3.5
何かしらの特殊な身体的特徴や状態にある人間が、のっぴきならない状況を目撃してしまったとき、どのような行動で自身の証言に対する周囲の信用を取り付け、事件の首謀者を追い詰めていくか……『見えない目撃者』に始まる「視覚障害者が殺人事件を目撃してしまったよ系サスペンス」の醍醐味は、前述したような部分にあると考えられます。

しかし本作は、そうした従来の「盲目サスペンスモノ」を逆手に取ったような構造を選択しています。主人公である盲人鍼灸師の盲人演技が醸し出すリアリティの無さに見える微妙な危うさと不確かさは、映画序盤の頃から伏線として機能しています。「なんかあるな」と思いながら見ていると、主人公、実は「全盲」ではなく「昼間はダメだが、夜の間だけは目が見える」という特殊な盲目設定の持ち主であることが明かされる。

盲人という、社会的な構成要員の中でも比較的弱者に属する人物でありながら、一般人とは異なり「夜に限ってよく目が見える」というこの設定は、主人公にある種のヒーロー的側面を匂わせる要素を加味しつつも、実際のところ強調されるのは「夜に限って目が見える」という生まれつきの能力に、主人公の臆病な心が試されるという展開である。「盲人は盲人らしく、見えないふりをしていれば良いのだ」という台詞のリフレインは、葛藤の末に世子亡き後の自らの行動を振り返り「盲人だから見逃されてきた」という出自の特殊性が生み出す状況に甘え続けることを主人公が拒否し「私は見た!私はたしかに見たのです!」と声を上げるシーンとセットで振り返ったとき、そこで立ち現れるのは、盲人よりも多くの世界をその目で視て、盲人よりも多くの企てを間近で視ているはずなのに、自己の利益や損得勘定を優先して事態に気づかない振りをするという「盲目な人々」の存在である。人々は(そして、私たち観客は)ただ盲人が声を上げるのを待ち、追い詰められた王が狂っていく様を哀れみと侮蔑の気持ちを込めた眼差しで睨むことしか許されない。それは、そうした「盲目の人々」が持つ目線を観客と重ねるような試みを映画自体がしているからだ。

この映画は、いわゆる権力者側から見たときの社会的弱者にヒーロー性を与えて権力者の不正を暴いたよ!な展開で社会的弱者や一般人を無条件に肯定するような映画ではなく、弱者主人公に特殊な弱者属性を付与することで、一般人も権力者も(そして映画を観ている我々観客をも)、等しく「盲目」なのだという、ある種の批評的な眼差しを有した作品である。それでいながら、序盤から中盤にかけて主人公の出世描写と世子の交流にたっぷりの尺を割いた上でラストの展開を持ってくることで復讐譚としても成立させんとする様は、野心的というよりも、この批評性に溢れた作品をどうにか娯楽作品にまとめようとする監督の苦労を感じさせる。あのひょうきん者な主人公の先生のリアクションだったり、直線的演技そのものな子役に始まるテンプレ演出が、この社会批評を多分に含んだ作品においては完全に浮いてしまっている。おそらく監督の性質は、劇映画作家ではなく、社会派に属するのではないかと思う。
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