まぬままおま

月曜日から来た女のまぬままおまのレビュー・感想・評価

月曜日から来た女(2005年製作の映画)
5.0
私は本作の世界で一番の擁護者でありたい。

本作はハル・ハートリーのフィルモグラフィーにおいて最低評価が下されている。
しかしそれはタティアナ・アブラコスの裸体に多くの人々の目が眩んだことが理由の一つ目であり、2005年公開時、チープなSF劇が実は最も現実世界を的確に描写したことに気づかなかったことが理由の二つ目である。さらにハートリー監督の後の作品をしっている現在においては、「ロング・アイランド・トリロジー」と「ヘンリー・フール・トリロジー」の中間にこの作品を確かに位置づけることが可能である。すなわち物語の思想においては、反転する革命状況≒新自由主義的状況における反体制派を描いたという点について。そしてカメラを傾けることは『フェイ・グリム』に生かされているように映像表現の実験という点で。

以下、ネタバレを含みます。

本作の舞台となる世界では、“大革命”が起こり、ニューヨークはマルチメディアの大手独占企業“トリプルM”に支配されている。消費経済がこの世界の中心であり、消費に関わることが人間であるとされる。人間は手首にバーコードが刻まれており、それで商品を購入している。身体の支配はそれだけに留まらない。セックスは自らの株価をあげるものに変わってしまっている。行政ももはや民主主義のためにはない。学校は囚人が教師の代わりとなり生徒を監視している。生徒は仮想空間に参入する装置を頭につけて消費経済に駆り立てられる人に教育される。
そんな世界に嫌気がさして体制転覆を試みる広告会社の重役・ジャック。彼の体制への闘争は一定の成果をあげていく。そんな中、同僚のセシルと性愛関係になったり、他の惑星からきた「nobody」(タティアナ・アブラコス)に出会ってしまう。そしてジャックの仲間の高校生・ウィリアムとの関係も錯綜して思わぬ事態に転じていく。

上述のあらすじで語ったように本作の世界観は極めてSFなのだが、描かれている状況は現在にも言えることである。広告会社が幅をきかせ、広告で語られていることが真実かつ重要で正しいかのような世界。広告されるものと言えば商品を購買することであり、お金を使うことが「よいこと」とされる。しかも商品は全てのモノをさす。それは非物質化されたサービスでも可能なことは自明に思えるが、自らの身体も商品化可能なのである。だから自らの身体の使用と、その購買ー市場交換としてのセックスといってもいいーは消費経済に回収されてしまう。そこでは純粋な経済活動であるため、快楽は不要であり経済活動を阻害する可能性があるから禁じられている。そのことはこの世界に風俗産業が溢れていることとマッチングアプリや「パパ活」などで個人を商品化して見定め≒スワイプして、広義のセックスと引き換えに金銭を得ることが「当たり前」になっていることからも的確な描写と言える。もちろんマッチングアプリやしている人を糾弾したいわけでもないし、それは社会的に一定の容認を得た行動とは思う。ただし「パパ活」においてはパパなる男に問題があるし、経済格差を拡大、黙認する企業、政治の問題ではあるが。
このようにセックスの商品化と市場交換、経済的主体への教育とそれによる腐敗、倫理的であることは経済的なよさで語られるといった、現在の新自由主義的革命状況を本作は的確に描写しているのである。

物語の思想面に触れるとすれば、まず着目すべきなのは「Nobody」の表象についてである。彼女が他の惑星から来たというSF的設定は、現在の新自由主義経済には不可欠な外部の存在としての移民を表象した点で素晴らしい。さらに彼女が「誰でもない」のは、本作の世界の外部の存在でもあるからだ。彼女は世界のイデオロギーを内面化しているわけではない。手首にはバーコードがないから身体を商品化もしていない。このように経済的なbodyがないから「Nobody」なのである。それは世界からの排除とも捉えられるが、世界を転覆可能な主体であることも意味する。

彼女はこの世界にやって来てから生きる術を忘れている。咀嚼もしらないし、トイレの仕方もしらない。もちろん言葉も知らない。だから彼女はジャックに教わる。本で知識を得る。さらにジャック以外のセシルやウィリアムといった他者にも出会っていく。それは別様の生き方を知ることだから彼女が惑星に戻ることを困難にさせる。だけど、だからこそ世界を転覆させる力を持つのだ。知を信じることの素晴らしさ。そしてこの「知(の力)を信じて、世界を転覆させること」は上述の二つのトリロジーで語られていることは言うまでもない。

しかしこの転覆がとても困難であることを本作は承知している。
ジャックらの反体制運動は成功しつつあった。しかしその運動は体制側に把握済みであり彼らは捕まってしまう。そしてジャックもまた他の惑星から来た者であり、どんな反体制運動をするのか体制側に実験的に放置されていることが発覚する。この真実はとても不条理で残酷だ。

「Nobody」は入水し惑星に帰ろうとする。それは彼女が世界の支配から脱し、新自由主義的状況から逃れるということだ。彼女の惑星はきっと新自由主義的状況が来なかった世界であり、身体が商品化されない世界なのだろう。そして経済の論理が支配しない世界、私たちに自由と開放のみを与えるユートピア世界でもあるだろう。しかし私が思うに、彼女は惑星に帰れなかったし、溺れ死んでしまったと思う。なぜならこのようなユートピア世界への回帰は空想でしかないから。もう私たちはそんな世界に戻れないし、この現実を生きなければならない。

だからこそジャックの決断は素晴らしいと思う。ジャックは惑星に帰らない。そしてこの世界に抗うことを試み続けるのである。抗うことは体制側に気づかれたり、知られている。市場経済から離脱することはできないし、身体は商品化されデータとして管理されてしまっているのだから。彼の抗いは「No future」かも知れない。だが知を信じて試み続ければ体制の間隙はつけるはずである。そしてこの抗いこそ、自らを商品ではなく人間たらしめる運動なのだ。

このように本作はセックスの商品化に焦点を当てて、現在の悲観すべき新自由主義的状況を的確に描いている。しかし私たちはただ呆然としたり、別の惑星に帰ろうとする未来だけが残されているわけではない。私たちは知を信じて抗うことを試みなければならない。それはとても困難だが、確かにその未来は開けている。