くまちゃん

クリード 過去の逆襲のくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

クリード 過去の逆襲(2023年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

2013年、オスカーグラント三世射殺事件を描いた「フルートベール駅で」が公開されると、映画業界での監督ライアン・クーグラーと主演マイケル・B・ジョーダンへの注目度は一気に高まった。
それ以降クーグラーとジョーダンは幾度もタッグを組み、黒人であることを活かしつつも人種による垣根を越えようと務めてきた。
俳優が出演契約を交わす際、スタッフとキャストに対し人種や性的少数者などの多様性を担保する目的で設けられたインクルージョン・ライダーという制度が存在する。ジョーダンはハリウッドの人気俳優として初めてインクルージョン・ライダーを取り入れた。

今作はクーグラーの立ち上げたスピンオフのメガホンを、ジョーダン自身へと引き継がれた形となる。
メアリーに引き取られて以降、黒人でありながら裕福な暮らしを手に入れたアドニス、逮捕により夢を絶たれ、青春を奪われ、全てを失ったデイミアン。二人の対極的な人生と各々の想いが交錯する。
これをジョーダンが監督した意味は大きい。アフリカ系アメリカ人の差別と偏見を描き続けてきたスパイク・リーとも異なる視点と感性によって新たな時代のブラックムービーと言えるだろう。

聴覚障害を患う娘アマーラは嫌がらせをしてきた同級生に拳で応える。アドニスが自衛のためとしてボクシングの基礎を教えたためだ。暴力という短絡的な解決法にビアンカは眉をひそめる。暴力以外の解決法を教えるべきだとするビアンカの主張は正しい。アマーラの将来のためにもその方がいいだろう。ところが、アマーラの暴力性に対するアンサーが作中には登場しない。むしろボクシングがアドニスとアマーラの絆としての一部分が切り取られることで暴力を正当化しているようにも見える。
多様性に寛容的な現代において未だに黒人へのステレオタイプな偏見を持つものは多い。だからこそ尚更暴力に対する否定を示すべきだったのではないか。
ボクシングはスポーツであって暴力ではない。一般的な社会生活において相手に拳を振り上げるような行動は慎まなければならない。それを娘に教えるのがアドニスの役割だったはずだ。

長年デイミアンから送られ続けていた手紙を母メアリーは隠していた。
それに激昂するアドニス。デイミアンとの仲が拗れたのは母のせいだと責める。
客観的思考の持ち主であれば、手紙を隠していたのは自分の身を案じる親心であると理解できるだろう。アドニスもわかってはいた。ただ突発的に責めてしまった。前作ではロッキーを今作では母を。
いつになく成長のないアドニス。
父親になっても子供のように不貞腐れるアドニスはもしかすると極度の愛着障害なのかもしれない。甘えたい相手からの言動がたとえこちらを気遣っていたのだとしても自分の気持ちとの大きな乖離に耐えられず許容できず感情的になってしまう。相手への怒りの示し方が幼稚すぎて毎回イマイチ感情移入しづらい。

今作は色々揉めた挙げ句名前だけのスタローンとなった。現実問題でのイザコザは仕方がないだろう。だが作品に影響を及ぼすのはいかがなものか。
今作にはロッキーなど微塵も登場しない。前作のラストでロッキーは息子の家族を訪れ受け入れられた。そこでロッキーの物語は完結としてもいいのだろう。
ロッキーはそれで幸せなのだ。
だが今作ではアドニスの養母であり盟友アポロの妻メアリーの死が描かれる。
その最期はアポロとアドニスへの深い愛情と信頼に満ち溢れた素晴らしいものだった。ロッキーとはそれほど懇意な仲ではないがシリーズを通して同じ時代を生きてきた数少ない生存者。前作で一度は溝のできたアドニスとロッキーを繋げたのはメアリーだった。何よりアポロの妻なのだ。その葬式に参列しないのは大きな違和感が残る。
幼少時、警察に囲まれたデイミアンを置いてアドニスは逃げた。子供だったのだから仕方がない。が、今作にロッキーが登場しないことで、アドニスは都合の悪いデイミアンもロッキーも捨てたように見えてしまっている。

クリードシリーズのトレーニングシーンはロッキーのそれと比較するとかなりダサく見えるのはロッキーの二番煎じ感が否めないだからだろうか。

マイケル・B・ジョーダンは日本のアニメにただならぬ関心を持っている。それが奇天烈なオマケ映像として形を成し、映画ファンロッキーファンを混乱の渦へと突き落とした。
クライマックスの試合の場面でもアニメカルチャーの影響が色濃く反映されている。リング上での二人だけの異空間演出やスローモーションなどは前作でも見られたが、巨大な檻の中で試合をするというあの演出はやはり過剰だったと言わざるをえない。やりすぎてチープな印象すらある。
ブラックムービーとして掘り下げが浅い上、アニメ的な演出がはっきりとノイズになっている。
ムショ上がりのデイミアンのデビュー戦がタイトルマッチというのも漫画的アニメ的であり無理があるだろう。

ラストでリングロープの隙間からアドニスの背中が見える。それは過去という監獄を乗り越えた真のチャンピオンの姿なのか、または、「ロッキー」という偉大な箱から脱却を試みた新たなチャレンジャーの姿なのか。

アマーラを演じたミラ・デイビス・ケントは聴覚障害をもつ若手女優を求めて行われたオーディションで発掘された。
時には繊細に、時にはお転婆に、耳が聞こえない事はハンディではなく個性だと主張しているかのような泰然たる演技。
それは手話と眼球運動だけで全ての感情を網羅しているかのようだ。
小柄な体躯に似つかわしくないハイレベルな技術力は将来名優になりえる素質を覗かせている。

「クリード」
この名の持つ計り知れない重みは容赦なくマイケル・B・ジョーダンの双肩にのしかかる。

今作で顕れたマイケル・B・ジョーダンの荒々しく、趣味嗜好に偏りすぎた乱暴な作家性。それは作品を重ねるごとに研磨されカンヌやオスカーを巨匠たちと争う日が来るのもそう遠くはないのかもしれない。
くまちゃん

くまちゃん