河

そして愛に至るの河のレビュー・感想・評価

そして愛に至る(2000年製作の映画)
3.2
『愛の世紀』の第一部と第二部の撮影の間に撮られた作品らしい。内容はそこまで似ていないように思うけど、存在と人生、言葉や愛など前提になる概念の扱い方は共通するように思った。

実践が存在を証明する。言葉は自己、社会を語ることはできても、自分や関係性の中に堆積してきた言葉達による規定から逃れることができない。その二つの両立、言葉による実践として対話がある。存在の危機のようなものにある夫婦とその妻の友達の3人の話で、妻とその友達は対話によってその状況から抜け出そうとする。
ある対象への欲望はその対象を表す言葉、その言葉によるイメージによって規定されるもので、その対象とそのイメージは一致しない。そのために欲望はいつも失望に終わる。欲望を果たされないものとして、その欲望を抑え込み実践しない、欲望からの解放を望みつつも捨てることができない。それゆえに欲望による希望とそれが満たされないことによる絶望を行き来する人として、ゴダール演じる夫がいる。それに対して、ミエヴィル演じる妻は欲望を捨てていて、その友達は欲望を人間の本質的な行動としてそれに従い続ける。2人の女性はゴダールを中庸として対極的な価値観を持っている。
最初に対話を目指すことを目的にしつつも、その3人の間で何かが共有されることはなく、互いの価値観を提示して確認し合うだけの会話が続く。そして夫と妻の友人はその価値観通りの行動をすることで互いに失望する。その後、夫と妻の会話により、2人が欲望からそれぞれの形で距離をとっている理由が、その2人の間での愛に対する欲望が満たされずに終わったからだということが示される。そして、夫に言葉による行動を促すけど、夫はその価値観ゆえにその言葉を言えない。
タイトル後の鞭を打つ2人の女性に表されるように、その2人の間の価値観を持っていて実践ができない夫がその2人から行動を起こすように鞭打たれる話になっている。そして妻との対話によって態度が変容したように見えた夫は鞭打たれるのではなく導かれるように、対話や愛に向かってくような兆しを残して終わる。そういう話として理解した。
中年、老年期の話なので、映画内で起こる感情を全く掴めなかった。社会がそもそも中年、老年的な段階にあることの比喩にもなっているんだろうとは思ったけど。
映像としても何かが決定的に欠けている感覚があった。どうしてもゴダールと比べることになってしまうけど、物語としての映画のレイヤーや映像と言葉の相互作用みたいなものがないっていうのがあって、そこが個人的に何か足りないって感じたところなのかもしれない。ただ、その言葉しかないってことが作品の問題設定にもなっているように思うので、そう考えたら方法としても一致しているのかもしれない。
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