くまちゃん

ゴジラ-1.0のくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

ゴジラ-1.0(2023年製作の映画)
3.2

このレビューはネタバレを含みます

ハリウッド大作と戦えるか?
山崎貴はその質問にまだまだだと謙遜してみせた。しかしアカデミー賞において視覚効果賞をアジア圏で初の受賞という快挙を成し遂げ、さらに同賞を監督が授与されたのは史上二人目、前回が今尚根強いファンを持つスタンリー・キューブリックだというのだからこれは偉業と言えるだろう。
ゴジラの画作りは圧倒的でハリウッドほどの予算も時間も人員もかけられない日本映画が世界に立てるという前例になった。今作以降は予算や人員を言い訳にできず邦画の期待値もあがり、若い世代には巨大なプレッシャーという枷が嵌められることになるかもしれない。
そんな今作では山崎貴含む白組のVFX技術の解像度の高さは世界を魅了できると示した一方で、山崎貴は監督、脚本から退きVFXに専念すべきであることもまた証明されたのではないだろうか。

「無(ゼロ)から負(マイナス)へ」というキャッチコピーが純粋にダサい。
ゴジラの造形はCGにする必要性があったのか?あのディテールなら人が入ってても問題なかったような気がする。

神木隆之介演ずる敷島は、特攻兵でありながら機械トラブルと偽り戦争からも呉爾羅からも逃げた。逃げて逃げて逃げぬいた末、生き残った事への罪悪感だけが残った。敷島には碇シンジにも似た童貞的な脆弱性が見られる。彼は安寧を願うがそれがなんなのか具体的にはわからない。戦争では多くの国民が苦しんでいる。それを典子や他の前線に参加しなかった者たちへ強く感情をぶつける。さも自分が被害者かのように。敷島も国のために命を捧げることを強制された被害者だ。だが市井に暮らす人々は声をあげる術も戦う方法も持ち合わせていない。戦況の行く末に身を委ね、生き残るか、蹂躙されるか選択することすらできない。
敷島は選択を与えられ、戦って死ぬことよりも生きて罪悪感を背負い続けることを自ら選んだのだ。他人を責めるのは、感情を爆発させるのは、その繊細で脆い精神故である。

大石典子と言うキャラクターには違和感を覚える。彼女は敗戦の混乱の中乳児を託され泥に塗れ闇市で生き残ってきた。
そんな彼女が時代の潮流を知らないわけがない。女なら稼ぐ方法はあるという敷島に典子は憤慨した。自分にパンパンになれと?パンパンとは当時在日米軍将兵を相手にしていた街娼の事だ。戦争は国民から全てを奪う。家族も財産も尊厳も。その中で不変に漂い続ける根源的な欲望は黒い雨の如く人々の心に蔓延していった。弱者とは子供であり老人であり女性である。弱者は常に搾取される。そんなヒエラルキーの下層に位置しながら魂を削って日銭を稼ぎ、家族のため、生きるために欲望の捌け口になることを余儀なくされた事実が歴史に痛々しく刻まれている。ピークには3万人〜4万人ほどの街娼がいたとするデータもある。
典子の発言はパンパンになりたくないという個人的願望に留まらない。これは当時のその生き方そのものへの否定である。明日は我が身のこの状況でたまたま敷島や太田澄子に出会えた事で最低限度の文化的な生活を営めるに至っている。これはただの運だ。典子は子を育てる母であり、自立し銀座で働く近代的女性像の象徴である。それならなおさら過酷な現実を否定するのは彼女の性質とは相反するものなのではないか。
典子と乳児に血の繋がりはない。同居する敷島とも婚姻関係はない。つまりここに形成されているのは疑似家族であり、典子は純潔を維持しながら母になった奇跡である。これは処女懐胎とも見ることができ、聖処女マリアのような清廉な存在とした場合、街娼を穢れとして嫌悪するのも理解はできる。しかしそれと同時に、この処女性という部分に日本のオタク文化特有のフェティシズムがあり、気持ち悪さは否めない。戦後にあってこの典子の清潔さというものは彼女に多大なる違和感を付与させ、虚構の存在感を強めている要因ではないだろうか。

今作では原爆投下された時と同様黒い雨が降る。だがただ降るだけだ。黒い雨とは原爆炸裂時に巻き上げられた泥や埃、煤や放射性物質等を含んだ粘土の高い雨であり、放射性降下物の一種である。黒い雨は高濃度の放射能に汚染されているため触れた者は被爆する。頭髪の脱毛や急性白血病による吐血、血便、出血、健康だった者の急死などが相次ぎ、怪我や
火傷を負ったものは喉の渇きを潤すため有害とは知らずに口にするものも多かったそうだ。人間のみならず川にいる魚は悉く死んで浮き上がり生態系にも著しい影響を及ぼした。今作ではそんな被爆描写が皆無だ。せめて銀座で絶望に打ちひしがれる敷島が黒い雨に曝された事で吐血や脱毛などの症状が表れるといった健康被害を描いても良かったのではないかと思う。でなければ黒い雨は放射能であるというゴジラの設定と関連付けた、ただのアイテムに成り下がってしまう。ここに不条理がなければ意味がないのだ。

本土に上陸したゴジラは銀座の街を破壊する。敷島は典子と共に群衆に混じり必死で逃げる、天災とも言うべき破壊力に典子は巻き込まれてしまう。フィクションの原則として、遺体や生命維持が不可能と思える状態が確認できない場合その人物は生きている可能性がある。今作における典子がまさにそうだ。ゴジラは戦争そのものを表す。つまりゴジラの存在は残酷で冷酷で痛酷でなければならない。そこに慈悲が介入する間隙などあってはならない。ゴジラはその姿を出現させてから多くの命を奪ったが、それは単なる数字でしかない。ニュースで何人が死んだという「数」を見てもただの視聴者は心こそ痛むもののそれほど実感はわかないだろう。冒頭でゴジラは人を咥えて投げる。これはゴジラは人間を食さないという考えのためだが迫力に欠ける。せめてゴジラによる被災を生々しい人体欠損で描く必要があったのではないか。そして典子は死ぬべきだった。敷島の大切なものが突如として奪われる現実、典子の死をもってこそゴジラ=戦争というモチーフが完成するのである。
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