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ソフト/クワイエットのkuuのレビュー・感想・評価

ソフト/クワイエット(2022年製作の映画)
3.9
『ソフト/クワイエット』
原題 Soft & Quiet
映倫区分 G
製作年 2022年。上映時間 92分。
マイノリティへの偏見を持つ白人女性たちがあるトラブルをきっかけに取り返しのつかない事態に陥っていく様子を全編ワンショット&リアルタイム進行で描いたクライムスリラー。
『ゲット・アウト』のジェイソン・ブラムが製作総指揮を手がけ、これが長編デビュー作となるベス・デ・アラウージョがオリジナル脚本・監督を務めた。

郊外の幼稚園に勤めるエミリーは、『アーリア人団結をめざす娘たち』という白人至上主義グループを結成する。
教会の談話室で開かれた初会合には、多文化主義や多様性を重んじる現代の風潮に不満を抱える6人の女性が集まる。
日頃の鬱憤や過激な思想を共有して盛りあがった彼女たちは2次会のためエミリーの家へ向かうが、その途中に立ち寄った食料品店でアジア系の姉妹と口論になってしまう。
腹を立てたエミリーたちは、悪戯半分で姉妹の家を荒らしに行くが……。

今作品は、ベス・デ・アラウージョ監督の見事なデビュー作であり、白人至上主義についての胸を打つ物語でした。
しかしその最終的なゴールは少々ちぐはぐと感じた。
今作品が、脚本家であり監督でもあるベス・デ・アラウージョによる熟練した作品であることは、冒頭から明らかで、容赦のない感情的体験であり、不幸にも今日の世界にあまりにも存在する、人間の最も暗い影を目撃するよう観客に強制する作品と云える。
確かに、長編監督デビュー作となるデ・アラウージョが、創造的熱意と将来性を備えた才能ある映画作家であることは否定できない。
しかし、今作品の問題は、その意図にある。
今作品の主役はステファニー・エステスで、エミリーという幼稚園の先生である。
彼女は、自分の住む小さな町の教会で、志を同じくする女性たちの定例会を組織し、自分たちの個人的な問題や(彼女たちから見た)世界の状況、そして、組織としてどう成長できるかについて話し合っている。
グループの名は、『アーリア人団結をめざす娘たち』。
それはもちろん、エミリーがパイ(グループの軽食への貢献)を披露し、パイ生地に刻まれた鉤十字を見せた後に明らかになる。
他のメンバーが思わず息をのむと、嫌悪というより、彼女の胆力に驚いたのだんかな?エミリーは "ただのジョークよ "
なんて趣旨のことを云う。
特に前のシーンで、彼女が学校の褐色のメンテナンス・スタッフを横目で見ていた後では、驚くことではないが、それにもかかわらず、それは見る者の心をとらえる。
最初はそう思えないかもしれないが、ひとたび彼女たちが白人至上主義者であることが明らかになると、今作品はたちまち強烈な映画のひとつとなる。
リアルタイムで撮影され、まるでワンテイクで撮ったかのように見える手法がこの映画には有利に働き、決して我々に猶予や逃げ場を与えない。
映画がこの手法を採用するときはいつも、ギミックのように感じられたり、注目されすぎたりする危険性があるが、デ・アラウージョの映画では、あの部屋での暴力的なレトリックと、後に彼らが外で行うもっと暴力的な行為に、我々を効果的に捕らえている。
今作品は、人種差別、同性愛嫌悪、反ユダヤ主義を包み隠さず描いているからこそ、観るのが難しい映画と云える。
この点で、女性アンサンブル・キャストは賞賛に値するかな。
彼女たちが演じるキャラはみな恐ろしく、中傷は息を吐くように自然に口から出る。
特にエスティスは、エミリー役で驚異的な演技を見せ、最も狡猾な時は巧妙でにじみ出るような演技を見せ、最も自暴自棄な時は動揺して破滅に向かう。
レスリー役のオリヴィア・ルカルディ、キム役のダナ・ミリカン、マージョリー役のエレノア・ピエンタもそれぞれエステスの軌道にしっかりと乗り、登場人物の憎しみと怒りを臆面もなくぶつけ、そのすべてを画面に残している。
同時に、今作品の意図を理解するのが難しく、それゆえに書くのが難しいのは、本質的にこの全面攻撃的なアプローチなのやろうな。
アジア系混血姉妹のリリーとアン(それぞれシシー・リーとメリッサ・パウロ)と激突した後、エミリーのグループが復讐のためにいたずらをすることを決め、そのいたずらが致命的で恐ろしいものになったとき、『何のために?』特に、アジア系アメリカ人に対するヘイトクライムが史上最高を記録している今、憎しみを代弁し、白人至上主義にスポットライトを当てる映画で何が達成されるのか?
明らかに、白人女性たちには後戻りはできない。
物語上、白人至上主義者に贖罪という選択肢はありえなかった。
リリーにもアンにも、他の女性たちのような深みとスクリーンタイムが与えられていないため、我々は憎しみの目を通して憎しみを見ざるを得ない。
その結果、映画の終わりには、怒り、死、そして特に人種差別を受けた観客にとってはトラウマしか残らない。
さらに重大なんは、映画鑑賞体験としては有害なことだが、我々は何も知らないままであることだ。
白人至上主義が存在することは知っている。 
『米で白人至上主義の事件が記録的件数に、前年から40%急増』なんてのも先日、目にした。
それがどのように機能し、力を与え、繁殖させているのかも知っている。 
今作品の意図が白人至上主義の陰湿さを思い出させることにあるのなら、その必要はない。
我々に強制的にそれと向き合わせることが目的なら、観客が(繰り返すが、特に人種差別を受けた観客が)すでに日常的、体系的にそうしていないと仮定するのは傲慢と云える。
そのために、デ・アラウージョの映画は、精巧に作られているが、そのための衝撃と畏怖のように感じざるを得ないかな。
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