SQUR

怪物のSQURのレビュー・感想・評価

怪物(2023年製作の映画)
5.0
映画はフィクションで実話ではないけれど、そこに志を同じくする人がいることを、人の上に平和のあらんことを願う人の存在を教えてくれる。
人は弱く不完全で(不完全のまま完全で)、そしてそれでいながら人の人に対する想いはかけがえのないほどに尊い。だから私は、もっと人のために必死にならなくてはいけないと思った。人を想う人のために。この身を捧げなくては。


追記:「怪物とはなんだったのか?」という問いに多くの人がそれぞれの答えを見つけただろう。「怪物=悪いもの、恐ろしいもの」という等式を保存したまま、誰もが怪物になる、という答えもひとつの答えだと思う。同時に私は、怪物という言葉が一般にもつイメージを一旦保留することを提唱したい。そして、作中で"怪物"という言葉がどう扱われているかを検討したい。そのように考え、この映画において"怪物"とはなにかを調べるとき、作中の「怪物誰だ?」ゲームはそのまま答えになりうる。この「怪物だーれだ」という掛け声はちょっと言葉遊び的だ。この一文だけなら「誰が怪物なのか?」という意味も「怪物ってどんなやつなの?」という意味も持ちうる。そして「言葉」のもつ意味は行為によって同定される。この映画においてはどうだろうか? この場面で、怪物とは「一人が自分についての質問し、一人が相手についての説明をして、そういったやり取りの中で正体に近づいていくことのできる存在」だ。「怪物誰だ?」という疑心暗鬼的になりうるフレーズも、文脈によっては相互理解の意味を持ちうる。この事実の指摘は、ゲームから物語全体に拡散する。一見暴力性を帯びた行動も、それがどの文脈で、誰によって、誰に対してなされたか、誰がそれを気づき評価したかで多様に見え方を変える。
そしてこのゲームをする際の2人のやり取りの様子にも示唆を見出すことができる。「ナマケモノ」に対して、「怖がって動かなくなる」「それは君のことだね」といったようなやり取りがある。また「ブタ」については、「豚の脳」と呼ばれてきた彼に対しては非常にデリケートなお題である。そして、そのような危険な領域に、しかし愛情と敬意を持ってそっと踏み入ることを経て彼らは真に知り合うことができ、互いにケアの関係を築くことができる。この一連の短いやり取りは、この映画の全てを包含している。人が人と出会うためには、不確実性の中で手探りにときに傷つき傷つけながらも近寄ろうとすることだ。ときには相手を傷つける覚悟を、私たちは進んで選びとらなくてはいけない。相手の領域に侵入するという暴力もその行為者の意思や、対象者との関係性によっては、優しさに変わる。
この「優しい暴力」を選び取る勇気は、しかし、社会のなかで容易に霞んでしまう。事実、教室の中で、彼は接近ではなく防衛のために暴力をふるう。だから、どうか、その一瞬を、捨てられた車両の一角に見つけたほんの僅かな時間を、大事にして欲しい。大事にしたい、見過ごしたくない。
(追追記:土砂崩れの音を聞いて「発車するのかな?」と話す。観客視点からはその音は暴力そのものだが、彼らにとって未知なるもので、なにかソワソワする予感的なものだ。このシーンの良さが、思い返すにつれて分かってきた。)

『怪物』はもちろん映画で、映画ゆえに物語性を含むけれど、それ以上に私的な「決意表明」といった側面があるように私は思った。全力で人を愛し人と共に生きるという決意表明。映画としての決意表明なのだ。だから私は、そのように評価し、その表明に賛同する。

この映画は、キリスト教圏だったらキリスト教とともに語られていたかもなと思うほどにキリスト教的でもある。人の不完全さを認め、そのうえで光に向かうことを祈る。実際、同時代的に同じ問題意識をもった『対峙』にはキリスト教的象徴が映されている。そしてそれはどっちが優れているという話ではなく、経路は違えど同じ山の頂上を目指しているということだろう。

基本的に群像劇の王道の"パズルゲーム映画"を踏襲しているのが、パズルのピースをはめていっても「奇妙に余白が残っている」ところが特徴的な映画だ。
この、"あえて完成できないパズル"は、その"パズルゲーム"が映画内だけではなく現実世界までの射程距離をもつことをしめす。さらに、ある意味でゲーム的でクリシェ的だった三幕構造の終盤において、その「答え合わせ的ゲーム性」がスルッと脇に置かれるのも巧く、そしてゲーム的シナリオを脱した先にあるのは"光"である。それは言葉によって複雑に絡め取られてしまう私たち社会的人間による"構成された物語"という名の迷路の出口の光でもある。そこには最初から「立ち入りを禁止するフェンスなんて存在していなかった」のだ。

この映画について、脚本のやりすぎている部分や、クィアネスにまつわる不満や、配給側の態度に対する批判を読んで、それらは全部当然の批判だろうと思った。そしてそれを反省し乗り越えて進む。そういう在り方のこと。それをこの映画は描こうとしている。このことは映画を観るだけでも伝わってきたが、後日の監督の宇多丸との会話も制作側のその姿勢を裏付けていた。「間違えない」のは大切だけど、基準を「間違えないこと」にすると、元々は誰かを掬うための基準であっても、人間の許容範囲を狭めてしまう。一番怖いのは間違えることを恐れ、すべきことを、光に向かうことを諦めてしまうこと。赦して許してゆるしつづけて、みんなで同じ方向を目指したい。
「作話上の都合に合わせて恣意的に登場人物が動いているように見える」という一見瑕疵と思える部分も、「2時間の尺で人間を描き切ることもできなけれど、完全に理解することもできない。」というふうに言い換えればテーマと一貫した部分とも捉えられる。つまり、映画の中で生じている人間関係の構造が映画と観客の間でも生じるようになるというメタ的な構造をもっているのだ。さらに言えば、この映画に対して「クィアネスについて話すのはネタバレになるのでやめて欲しい」という配給側の姿勢によって傷つき抗議する人がいる、という構図も大きな社会の仕組みと個人の間の齟齬として整理するなら、作中の学校と保護者の関係と相似形になっている(ちなみに監督は「LGBT映画ではない」とは言っていないのではないかと個人的には思っている、デマと言うよりは伝言ゲームによる誤解?)。また、私自身も鑑賞中に「扱っているテーマに対して語り口があまりにも軽快で、伝統的なエンタメすぎる(つまり、面白すぎる)のでは?」と思っていたが、それは「マイノリティにはマイノリティらしくあって欲しい」というステレオタイプと相似形でもある。例えば、「普通の家庭を持って欲しい」という保護者の言葉を聞いたときに私は「クィアを苦しめる言葉だ…」と反射的に考えた。しかし語り直されるとき、みなとは母の言葉を聞いてすらいない。こういった仕掛けは非常にあざやかだ。

レビューのなかで「いじめっ子は悪いやつだった」という結論に至っている人もたまに見かける。そしてそういった理解がなされることもおそらく製作陣は想定している。しかしそういった短期的なトラップに嵌る事態はあえて度外視することを選んだのだろうと思う。それは、観客を変えるのではなく、まずは自ら表現し伝え、いつか理解し合う日がくることを信じたのではないか。
この映画は社会を変革する爆弾ではなく、観た人々のこころのなかにまかれる種で、いつかふさわしい場所で芽を出しやがて花を咲かせるだろう。

最後に、個人的なことだが、私は教育領域の心理援助職としてホリセンの立場に自分を重ねる部分があった。私もホリセンや他の全ての人間と同じように不完全で過ちを犯すだろう。それによって、自分の人生が大きく損なわれた感じるような事態に陥るかもしれない。それでも、そのことを恐れて、助けを必要としている誰かを見て見ぬふりするのであれば、私はもっと後悔することになる。私もあなたも不完全なのだ(不完全だからこそ助け合うことができ、それ故に人間は不完全なままで完全なのだ)から、人のために常に全力でなければいけない。手加減をしているような余裕はない。
SQUR

SQUR