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怪物のambiorixのレビュー・感想・評価

怪物(2023年製作の映画)
4.4
俺はにわか映画ファンなので、是枝映画とのファーストコンタクトはたいへん遅く、カンヌ映画祭の最高賞パルムドールを受賞するなどして話題になった『万引き家族』が初めて。当時は「観客に解釈を丸投げしてとんずらをかます人」みたいな印象が否めなかったし、似たようなカテゴリの作品なら、翌年の同賞をとったポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』の方がわかりやすくエンタメに振り切っていて断然好みでした。ところが、是枝監督のフィルモグラフィーを丹念に追いかけていくうちに面白さがわかってきたし、この人は四半世紀以上にわたるキャリアの中で一貫して同じテーマを描き続けてきたんだな、ということもわかってきた。それが何かというと、人の生き方を安易にジャッジしないこと。もっというなら、二項対立や二元論では決して割り切れない世界の複雑さや曖昧さをスクリーンの上にそのまま映し出そうとすること。個人的には公平公正で客観的なドキュメンタリーなんてものはぜんぶ眉唾だと思ってますが、テレビのドキュメンタリー畑出身である是枝監督はそれでも客観性の側に、人間という存在のわからなさをわからないまま画面に叩きつける選択肢の方に賭け金を置き続けているように思います。それは、夫を自殺で亡くし能登半島の田舎に嫁いだ女を極端な引きの固定ショットでもって淡々ととらえた1995年の長編デビュー作『幻の光』の頃からまったく変わっておらない。なので、是枝映画を見た人からよく聞かれる「何を伝えたいのかよくわからなかった」「相対主義を振りかざす卑怯者だ」といった指摘は半分当たっているんだけれども、半分は外れている。なぜなら是枝監督は、たったひとつの正解や揺るぎない真実なんてなものをハナっから信じていないからです(フランスで撮ったその名もずばり『真実』なるタイトルの映画ですらそうでした)。
もちろん、本作『怪物』においてもおなじみのテーマ性は健在、それどころかもはや是枝裕和の集大成的作品だと言っても過言ではないのですが、ここで忘れちゃいかんのが脚本を手掛けた坂元裕二の存在でしょう。『幻の光』以来28年ぶりに監督以外の人物の手によって書かれた脚本は、同じ時系列の中で起きた出来事を3人の登場人物の視点でもって何度も語り直す、いわばノンリニアな語り口をとっており、これは従来の是枝映画にはなかったアイデアです。スタイルとしては黒澤明の『羅生門』や、リドリー・スコットの『最後の決闘裁判』あたりが近いかもしれません。同じひとつの出来事でも焦点の当て方によって解釈や感じ方がまるで違ってしまうことを利用しつつ、視点の積み重ねによって少しずつ絵解きをしていく。しかしここがもっとも重要なところなのですが、複数の視点の総和が必ずしもたったひとつの真実を指し示すわけではない、ということも本作は描いています。複数の視点が組み合わさり、散らばった伏線が回収されてはじめて見えてくることがあるにはあるのだけれども、それでも放火事件の犯人の正体をはじめとするグレーゾーンや闇の部分といったものはどうしたって残ってしまう。語りの視点が切り替わるたびにインサートされる真っ暗な諏訪湖のエスタブリッシングショットはまさにそのことを示唆しているようにも思えてきます。そういう意味でいえば、やっぱり本作は是枝映画以外の何ものでもないわけだし、単に「多面的にものを見ることの大切さがわかった」みたいな理解で終わらせてしまうと、この映画、ひいては是枝映画が見据えるテーマ性の射程を捉えそこねるはめにもなってしまいます。
さて本編。小学5年生の息子・湊(黒川想矢)を女手ひとりで育てるシングルマザーの早織(安藤サクラ)が、長野県は上諏訪駅近くのビルで起こった火事を自宅のベランダ越しに眺めるシーンから物語は始まります。3人の視点はこの事件が起点になっているわけですが、ここでは同じひとつの事件をそれぞれ別の視点から同時に眺めている。つまりこれは、本編のテーマの端的なメタファーでもある。早織はある日、息子が担任教師の保利(永山瑛太)からいじめを受けているのではないか、と疑いはじめます。果たして彼女は、いじめの証拠を次々と並べ立て、国会答弁のパロディのような謝罪シーン(笑)を経たのち、保利を辞職へと追い込むことに成功する。早織の視点で描かれる一連のシーンからは子供思いのイイ親というか、いじめを隠蔽しようとする権力サイドに対して一歩も引かない強い女性像を連想させますが、語りの視点が保利に移動するやいなや見え方が一変します。そこでの保利は人間性に多少問題はあるものの、生徒思いの素晴らしい先生のように映るし、湊に怪我をさせてしまった件に関しても本人の弁解どおり単なる事故でしかありませんでした。このことによって、よき母だったはずの早織が今度はモンスターペアレントにしか見えなくなってしまう、という不思議な逆転現象が起こります。
登場人物の主観に寄り添ってきた観客が語りの視点に同化し、いつの間にか肩入れしてしまう、という現象は、映画なるメディアが否応なしに抱え込んでしまった特質からくるものでもあります。作り手はその特質を演出や編集などのテクニックでもって強化することで物語のキャラクターに感情移入させたりモノの見方を共有させたりしているわけです。もうひとつ、本作の語り口で特徴的なのが、「大胆な省略法」でしょう。リニアに流れていた物語の流れを途中でプツッと切断し、その空隙を後から他のキャラクターの視点を用いて埋める。この「観客に何を見せて何を見せないか」というのも見逃せないポイントです。観客は「早織が見て保利が見なかったものを見た」からこそ早織の味方ができるわけだし、その逆に「保利が見て早織が見なかったものを見た」からこそ保利に与することができるわけです。これって、われわれ人間の認知のメカニズムそのものなんですよね。基本的に人は、知っていることや実際に見たものに強く印象づけられるのだし、一方で知らないことや見なかったことに対しては憶測や想像でものを言うしかなくなる。作中のセリフを挙げるなら「ガールズバーに火をつけたのは保利先生なんだって」「湊くんが猫をいじめて殺したんです」などというウワサやウソがそれにあたります。一連の場面では、一面的で狭隘なものの見方でもって他者を断罪してしまうことの恐ろしさが描かれています。このように、本作は作品全体のテーマと語り口とが見事に一致していて、カンヌで脚本賞をとったのも当然のように思えてきます。
カンヌといえば、本作は独立賞の「クィア・パルム」を受賞したことでも話題になりました。過去には『キャロル』や『燃ゆる女の肖像』などが受賞していることからもわかるように、LGBTやクィアを題材にした作品に与えられる賞なのですが、クィア・パルムをとったニュースがそのままど直球のネタバレになってしまうので、前情報を知らない状態で見た方がよかったかも(笑)。序盤から巧妙に伏せられてきた湊の抱える苦悩、とくに車中での会話の内容や仏壇の前での逡巡の理由がなんとなく想像できちゃいますからね…。ちなみに「クィア」というのは、今でこそ性的マイノリティをおおまかに包括する言葉として使われていますが、もともとは「不思議な」「奇妙な」「逸脱した」みたいな意味を持つネガティブなワードだったそう。劇中で後者の意味のクィアネスをもっとも色濃く体現する人物といえば、湊の友達である依里(柊陽太)でしょう。みんなと違うから、男らしくないから、などというふわっとした理由でクラスメイトや父親から日常的に虐待を受けている彼は、単純に「変わった子」と割り切ってしまえば楽なのかもしれないけれども、別の切り口から見れば、他の子たちが知らないような知識をたくさん持っている聡明な子供でもある。なんだけど、悲しいかな依里のような子は、早織や保利に代表される大人たちが身をもって示す「男は男らしくあるべきだ」「男は女と結婚して子供を産みよき家族を成すべきだ」みたいな、支配的な異性愛規範=社会規範からはどうしたって排除されてしまう存在なのです。しかしだからこそ、みずからのセクシュアリティや性自認に悩む湊は依里のもつクィアネスの豊かさに惹かれたのかもしれません。
さて、結局のところタイトルに冠された「怪物」とは一体なんなのか。映画の公開に先立って発売された文庫版のAmazonレビューを見ると「怪物が誰だかわからないから⭐︎1」なんという感想文が載っていて笑っちゃったんだけれども、むろんこの映画はホラー的なモンスターを描いたり、何かの事件の犯人を探したりするタイプの作品ではありません。これは俺の解釈ですが、怪物というのは、他者の中に潜む「他者性=理解できないもの」なんだと思う。先述した語句を使うなら、グレーゾーンや闇の部分といったところでしょうか。そして劇中のキャラクターたちは、そんな他者の他者性を恐れるがゆえにうまくコミュニケーションをとることができない。小学校の教師連中は国会議員みたいな不誠実さで謝罪を回避し続けるし、息子との真剣な対話を怠った早織は当座の事実を取り違えてしまうし、べき論を無意識のうちに振りかざす保利は「正常」の枠組みからこぼれ落ちてしまう子供の気持ちを汲み取ってやることができない。なんだけど、そんな絶望的でどうしようもない状況だからこそ、排除された者たちが不器用な方法でなんとか他者とコミュニケートしようとあがいてみせるさまが胸を打つわけです。ひと揃いの靴を片方ずつ履いてみたり(英語には「in one's shoes」ということわざがあり、「相手の立場になってみる」といった意味合いがある)、ゲームでもってお互いの正体を手探りで知ろうとしてみたり、言葉ではなく楽器を使って思いの丈をぶちまけてみたり。前半のパートで不吉な音色を奏でていたあれの発生源が実は…ってなことがわかる場面は本作におけるもっとも感動的なシーンのひとつです。冒頭で「是枝監督は人の生き方を安易にジャッジしない」と書きましたが、それでも社会的弱者やクィアな逸脱者たちの側に優しい眼差しを注いでいることは間違いないかと思われます。例によって解釈の分かれそうなあのラストシーンは、早織と保利が車両の中を眺めるショットと、のちに配される湊と依里が車両を脱出するショットとがどう考えても繋がらないのでまさか…などといささかの不安を覚えてしまうものの、みずからの手で切り拓いたオルタナティブな道を通って了見の狭い社会の軛から軽やかに逃走し、高らかに凱歌を揚げるハッピーエンドなんやと俺は思いたい。極端な話、「現世で生きることこそが至上なのだ」なんていう価値観だって、お前らマジョリティが手前勝手に決めたルールでしかないのだから。
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