kkkのk太郎

怪物のkkkのk太郎のネタバレレビュー・内容・結末

怪物(2023年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

麦野湊という少年の身に起こった出来事を、複数の視点から描き出していくミステリー&ヒューマン・ドラマ。

監督/製作は『海街diary』『万引き家族』の、名匠・是枝裕和。

脚本は『世界の中心で、愛をさけぶ』『花束みたいな恋をした』の、レジェンド脚本家・坂元裕二。

シングルマザーとして湊を育てる女性、麦野早織を演じるのは『百円の恋』『万引き家族』の安藤サクラ。
湊の担任、保利道敏を演じるのは『アヒルと鴨のコインロッカー』『64 ロクヨン』の永山瑛太。
保利の恋人、鈴村広奈を演じるのは『怒り』『キャラクター』の高畑充希。
港が通う小学校の校長、伏見真木子を演じるのは『もののけ姫』『ゲド戦記』の、レジェンド女優・田中裕子。

第76回 カンヌ国際映画祭において、脚本賞を受賞!

個人的に相性が悪い是枝裕和監督作品。
本作も観終わった直後は「えぇ…。こんな映画なのかよ🌀」なんて思っていたのだが、しばらく時間が経ってみるとこれはこれでアリな気がしてきた。いや、むしろ結構好きな味かも。
とにかく要素が多い上、藪の中に隠すかのような曖昧模糊とした物語だったため、自分の中でもうまく消化しきれなかったのだろう。レビューを書くまで色々と考えさせられた。

本作には一つの物事を多角的な視点で描き出す、いわゆる「羅生門アプローチ」という手法が用いられている。
三幕それぞれに主体となる人物を設定し、その人物の視座から物語を覗き見る。
同じ人物であっても、それぞれのパートでその印象が大きく違うのは視座となる人物の主観が物語に入り込んでいるからなのだろう。

自分は鑑賞前から本作が羅生門アプローチによって紡がれる映画であることを知っていたので、第一幕目が終わった段階で「あぁなるほど。それじゃあ次はああなって最後はこうなるのね」というなんとなくの筋道の予想をつけていた。
その予想は第三幕目で裏切られることになるのだが、その裏切り方というのがなんとも期待はずれで、それが鑑賞直後のモヤモヤ感に繋がってしまったような気がする。

この第一幕目はとにかく面白いっ!!
雑居ビルの火災から始まり、物語は段階的に不穏さを増していく。
湊のイジメ、加害者である絵に描いたようなクソ教師、そしてイジメへの対応をおざなりにやり過ごそうとする学校。生気を欠いたゾンビのような教師たちは何か秘密を隠しているとしか思えない。保利の口から飛び出した信じられない言葉。謎の少年・星川依里の登場。そしてある嵐の日、湊は忽然と姿を消してしまう…。
この謎が謎を呼ぶ怒涛の展開に目が釘付け!是枝作品に物語的な面白さを求めてはいなかったのだが、この第一幕目は文句なしに面白かったっ!✨
このパートの何が良いって、緊張感の走る不穏な展開の中に、意地悪なユーモアが混在しているところ。
学校に詰め寄る早織と校長を始めとする教師たちのやり取りはほとんどコント😂東京03の角田さんを起用しているあたり、この場面のコント感は意図的に演出されたものなんだろうが、最悪すぎる大人の対応には、怒りを通り越して笑えてきちゃうということが上手く表現されていたと思う。

第一幕目がこういう展開だったので、当然第二幕目は保利先生の視点から物語が進行する。
情熱に満ち溢れたその姿、そして綺麗な彼女がいるというリア充ぶりには驚かされたが、まあこのパートの展開は想定内というところ。体裁を気にする「学校」の醜悪さに辟易としながら、「なるほど。結局は”学校”という制度そのものが”怪物”だった、というオチに繋がるわけね😏」なんて思っていた。

プリミティブでイノセンスな少年少女が嘘をつくわけがない。この常識の隙をつくというのが、本作の嫌なところであり、また面白いところでもある。
無邪気な嘘が教師を追い詰める物語といえば、短編小説の名手スタンリイ・エリンが著した「ロバート」(1964)なんかが先行作品としてパッと思い浮かぶところだが、おそらく本作が下敷きにしているのは1980年代にアメリカで起こった「マクマーティン事件」だろう。
息子の性的虐待被害を疑った母親が、その子の通っていた保育園を告発。内部調査の結果、園児の多くが性的虐待を受けていたことを告白したのだが、その後そのような事実はなかったことが発覚。疑念と誘導的な調査が、子供達にありもしない記憶を植え付けたのである。
まぁ本作は保育園児ではなく小学5年生だし、嘘をついた経緯もマクマーティンのそれとは違うので、丸ごとこの歴史的事件を題材にしている訳ではないのだけれど、着想の一つとしてこれを用いたのだろう。

星川くんの純粋無垢な感じ、最初はなんか怖い。アル中の親父から「怪物」とか言われてたし。
となるとこれはあれか?わたなべまさこ先生の「聖ロザリンド」のように、イノセント故に他者を破滅させてしまう魔性を描いた物語なのか?それと”学校”における抑圧と教師たちの事なかれ主義が絡まり合い、強烈なイヤミスが展開されるんじゃないかと思い、この謎めくミステリーの種がついに明かされる第三幕目に胸を膨らませていたのだが…。

結局のところ、この映画は少年の性の芽生えと戸惑いの物語という文学的な着地をみせる。
せっかく豊かな広がりを見せてくれそうな映画が、いかにも是枝裕和らしい美少年のブロマンスに集約していってしまうのはなんとも勿体無いと感じてしまった。
もちろん是枝裕和監督作品にデヴィッド・フィンチャーばりのサスペンスを期待してしまった自分も悪いのだが、「怪物だーれだ?」というキャッチーなキャッチコピーを目にしている以上、そういうのを求めちゃうじゃない。予告編もスリリングだったしさー。売り方が悪いよ売り方がー。

とまぁそんな理由で、鑑賞後しばらくはモヤモヤっとしていたわけだけれど、そういう映画だと割り切ってしまえばそんなに悪い映画じゃない。むしろ、もう一回鑑賞したいかも、くらいには気になる映画になっている。

言葉にすると陳腐になってしまうが、本作のタイトルにもなっている”怪物”の正体は、拡大した自意識や凝り固まったマインドセットなどの、人間が内に抱える観念的なものなのだと言える。
それは自らを閉じ込める檻にも他者を打ち据える鞭にもなる非常に危険なものであり、さらに厄介なことにそれ自体の危険性に人はなかなか気付かない。問題意識もないままに、それに取り込まれてしまっているということも少なくないだろう。
自分の個性は間違ったものであるという考えに毒され、自らを蔑み傷つける湊や依里。そしてその内側の瑕疵から漏れ出た毒はやがて外部をも侵食していく。
その様はまるで「フランケンシュタインの怪物」のようだ。

子供たちに”怪物”を植え付けるものは何か。
自分勝手な価値観に縋って依里を虐待する父親、学校を守るためなら事故死した孫すら利用する校長、保身に走る教師たち、上司の命令に盲目的に従う保利先生、本作の大人たちは全てこうあるべきであるという凝り固まった考えに取り憑かれており、最善だと判断した言動が事態を悪化させていく。”良き”母親である早織も例外ではなく、彼女の常識が湊を深く傷つけることになる。

事故死した孫を引き合いに出し校長に詰め寄る際、彼女が見せた能面の蛇のように冷酷な表情は、世界を「内」と「外」に分けて捉えていることを意味している。
家族という「内」の安寧を脅かすものは「外」敵であるとし、それを激しく攻撃し拒絶する。そのマインドセットこそが”怪物”そのものであり、それが子供たちに伝播していることに、彼女は最後まで気が付かないのだ。
〈あるものをあるがままに受けいれる、と口に出すのは簡単だが、それに身を委ねるのは非常に困難である〉と我々大人は考えてしまう。しかし、旧来の価値観に囚われた保守的な思想/言動は世界の閉塞感を強め、新たなる怪物を次々と生み出していくことを我々は知っている。
「内」と「外」ではない、「正」と「誤」でもない、新しい観念を自分の中に見いだす一助に、本作はなるのではないだろうか。

最後に一つ、本作のエンディングについて触れておきたい。
湊と依里、2人の秘密の場所であり物語の終着点でもある廃電車。2人の少年と電車という組み合わせには、やはり宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を想起させられる。
となると、あの意味深なエンディングで2人がたどり着いたのは彼岸であると考えたくなる。もっといえば、あのバスタブの中で依里はすでに息絶えていた、と考える方が物語的には自然だと言えるのかもしれない。

しかし、これはすれっからした大人の見方なのではないだろうか。
湊の自殺を疑った早織、自殺しようと屋根に登った保利。この時2人が耳にするのはゴジラの咆哮のような、または黙示録のラッパのような奇妙な騒音である。
観客をも不安にさせるこの音だが、第三幕で明かされるその真相は、ただ湊がトロンボーンを吹いていただけだというものだった。
物事をシリアスに捉えすぎる大人と、それを嘲笑うかのように軽やかに遊んで見せる子供。大人と子供の対比が鮮やかに描かれたこのシーンから考えると、やはりあのクライマックスは、心配する大人を尻目に2人の少年が自由な生へと駆け出していっているようにしか思えない。
あるものをあるがままに受け入れる。本作から受け取ったメッセージを、そのままこの作品の結末にも当て嵌めたいと、個人的には思うのです。
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