まさか

怪物のまさかのネタバレレビュー・内容・結末

怪物(2023年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

以下は完全にネタバレです。しかも作品の構成上、映画を観る前にこれを読むと、大いに感興が削がれることをご承知おきください。まだご覧になっていない方は、読まないでくださいね。


カンヌ国際映画祭脚本賞受賞作品。確かに脚本の力は無視できないが、いつもの是枝作品同様、俳優たちの存在感が光る。とりわけ子役の2人の演技は、彼らの実年齢(14歳と12歳)を考えると驚くべきものがある。かなり難しい役柄をそのまま演じられる能力をいつどこで手にしたのか。いや、彼らは演じていなかった。ただ映画の中に生きていた。

一方で、作品自体はメッセージを伝えようとするきらいが目立ちすぎ、よくできた物語だが、個人的には世評ほどとは思わなかった。さらに言えば、フィクションとはいえ、本作が現実の学校現場(教師たちの苦労や気持ち)に与える影響について考えてしまった。いちど監督の手を離れた作品は、作品自体の力で人々の意識を左右するということについて無関心ではいられない。

さて、ストーリーはこうだ。早織は夫を亡くしたあと、女手一つで一人息子の湊を育てている。ふとしたことをきっかけに、湊が教師から体罰や暴言を受けていると思い込んだ早織が、学校に直談判するところから物語は始まる。結果的に学校側が早織の訴えを認め、教師の保利が父兄の前で謝罪し、学校を去ってこの一件はひとまず片付く。

ここまでは、観客側からは教師の保利に大きな非があると感じるような展開になっている。ところが、ここから物語はがらりと視点を変えて、湊とその友達である依里、そしてクラスの子供たちの側から描かれることになる。

保利が学校を追われるまでの出来事を全く別の視点から描き直すことで、真相は別のところにあり、もっと複雑であったことが示される構成だ。2018年に公開された『カメラを止めるな!』と似たような視点転換の仕掛けである。本作のメッセージを伝えるために、これが大きな役割を果たしている。

真相はこうだ。クラスの中で星川依里が虐めを受けている。麦野湊は依里と仲が良く、男子同士ながら互いに恋愛に近い感情すら抱いている。しかし、そのことがバレないように、そして自分が虐められる側にならないように、湊はクラスの男子が依里を虐めているときには、敢えて助けに入らず、時には加担する素振りを見せることさえあった。

アンビバレントな自分の言動に苛立ちを覚え、自らに対して怒りを爆発させる湊に、しかし依里は常に優しく接してくれる。教師の保利は、たまたま湊が苛立ちのあまり暴れている時に居合わせ、それが依里を虐めているかのように見えて、湊に対して誤解を抱くことになる。

実際には彼ら2人は仲が良く、クラスの仲間から距離を取り、自分たちだけの秘密の世界で遊ぶ時間を持っていた。森の中に埋もれた廃線跡に放逐され朽ち果てた列車の車両が彼らの別天地だった。実の父親からも家庭内暴力を受けていた依里にとって、その別天地で湊と過ごす時間はかけがえのないものだったはずだ。

依里は父親から「お前の脳は豚の脳だ」と言われ続け、暴力も受けていた。クラスでの虐めも、家庭内暴力も、その実態が表沙汰になることは稀である。学校側は学校側で、湊の母から抗議を受けた際、校長と組織の保身のために保利 1人を犯人に仕立てた、ということものちに判明する。

この作品のテーマは明快だ。人は根も葉もない噂話に左右されたり、事実の一面だけを見たりして、いとも容易く間違いを犯し、さらには敢えて他者を陥れることがあるということ。誰の心の中にも怪物が棲んでいるということ。

湊の母、早織も火事で全焼したガールズバーに、教師の保利がいたという事実無根の噂話をそのまま保利にぶつける。湊自身、母に対して「お前の脳みそは豚の脳味噌だと教師の保利に言われた」と嘘をついた。依里もまた、保利が湊に暴力を振るったり暴言を浴びせたりしたと、他の教師の前で真っ赤な嘘をついた。

人はしばしば事実と異なる証言をしたり、事態を都合よく処理したりするために、無実の第三者を陥れることがある。周囲もまたそれをよく検証もせずに支持する。本作では、初めは教師の保利こそが怪物だった。しかし視点が変わってからは、保利を取り巻く他の教師や校長、親や子供たちが本当の怪物であると判明する。同時に、映画を観ている我々自身もまた知らず知らず怪物の側に立っていたという事実を突きつけてくる作品である。

湊の母である早織は、複雑な人物として描かれている。早織の夫は不運にも不倫旅行の出先で事故死したが、湊の前では早織はそんな夫を今も大切な存在であるかのように振る舞うのだ。早織の言動は子供のためかもしれないが、両手を挙げて共感できるかと問われれば、微妙である。

死の原因を知りながら亡き夫への疑念を微塵も表明しない母のことを、湊は不思議に思っているのかもしれないが、そこに深入りはしない。依里の父は正真正銘の怪物だ。昼から酒を飲み、息子を虐待する人格破綻者である。

本作では登場人物の多くが、どこかしら壊れている。本来は子供たちの見本となるべき大人たちがみな怪物性を帯びている。それと鮮やかな対比をなすのが、湊と依里との、恋愛感情に近いものを宿した友情である。

この物語では、2人の関係性だけが救いになっている。彼らが大人たちについた嘘は保利の社会的な立場を完膚なきまでに破壊した。その点で彼らもまた怪物なのだが、2人が午後の光に照らされて雨上がりの叢の中を駆けて行くラストシーンはこの世ならざる美しさを湛えていて、強く印象に残る。

さてしかし。人は誰でも(子供でさえも)怪物性を宿しているのだという本作のテーマは、わざわざ映画で描かなければならないものなのだろうか。映画か何かで提示しなければそのことに気づけないほど、現代人の人間力は弱ってしまったのだろうか。

監督の是枝裕和も脚本の坂元裕二も、多分そう考えているのだろう。その怪物に自ら気づくには多少の注意力が必要だが、そのチカラを私達は失っている、という危機感が2人にこの映画を作らせたのかもしれない。ニーチェが言うように、人は自らの中の怪物性に自覚的でなければならない。
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