HeYaH

怪物のHeYaHのレビュー・感想・評価

怪物(2023年製作の映画)
3.8
初是枝作品、くらった

坂元裕二ファンなので足を運んだのだが、もう1人ファンが増えてしまった。

秀逸な構成、物事は多角的にみないとね その方向からみたら怪物だけど真逆からみたらいいヒト

誰にでも手に入るものが幸せ
誰かにしか手に入らないものは幸せでは無い

最後ペガサスの服きてなかった?! 通行止めだった線路走ってたもんな 出発してしまったのか?! 生まれ変わってしまったのか?、死んだことに気付かないのは幸せなことやな
悲しいが美しい話。
これは引きずるなぁ

誰か死にそうでしなないカタルシスが最後に浄化??

なんで花の名前なんか覚えてるの? 好きだから!

怪物は巧妙なミスリード、怪物ゲームでの単語でしかない

TVでみてるから、嘘だってわかるんだよ

怪物が誰かなのではなく、なぜ怪物なのか
目線によって誰もが怪物になり得る
母親の息子の幸せを願う一言が、湊を苦しめていたとは悲しい。
校長は子供を殺めてしまった自責で、生徒達は絶対に守るという鉄壁の決意があった


手札を頭の前に掲げ、自身の姿は相手の証言からでしか見ることができない―星川依里(柊木陽太)と湊が興じるゲーム「怪物だーれだ」に象徴される。 それだけ人の実相、実像とは移ろいやすいものなのだ。

要は、「自分の姿は自分で見えない」ので、「怪物本人は自分が怪物であるとは気づいていない」と言うことになる

映画では、誰もが怪物になる要素を持っていることがわかり、これらを俯瞰する立場にある観客は「ほぼ全員を怪物認定する」だろう だが、それはその人物のある一面でしかなく、本当の部分というものは見えないものである なので、自分が誰かを怪物認定している行為は、誰かにとっての怪物認定の要素になっている、と言えるのではないだろうか いずれにせよ、率直な感想は「うまい脚本だが、感情は動かない」というもので、精巧な機械のようなシナリオを読んだ気分になっていた

保利が女子児童から聞く猫の死体の話も、人は受け取りたいようにしか事実を受け入れないことを示唆する。

映画の中で早織はごくごく普通の母親であるし、色々口やかましいタイプでもなく、何なら物事の決めつけには注意を払っている方だと思う。それでも日常に潜む「認知の仕組み」の中で、無意識のうちに考えや感じ方が変化させられていくのだ。 こう書いていくとまるで人間の認知の仕組みが「悪」であるように感じられるかもしれないが、膨大な情報を処理し、最善手を決断するためには不可欠な機能である。この仕組みがなければ科学の発展は無いし、犯罪の捜査は無理だし、短歌も俳句も成立しない。 アニメーションは誕生せず、広告は直接的な言葉の羅列で、生活のために記憶しておかなければいけないことは膨大な量になる。
環境で悪の概念は変わる

線路のバリケード🟰障害を取払ったのだ

特に天井窓の泥を拭い続けるシーンは、闇の中に光がいくつも瞬くよう、まるで宇宙の星のように
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