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怪物のJFQのネタバレレビュー・内容・結末

怪物(2023年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

構成もキャッチコピーも「うまい」。「怪物だ~れだ?」と投げかけられ、いろんな登場人物の目線から事件が描かれれば、当然、「怪物」を探してしまう。
だから映画に引き込まれるのだけれど、観ていくうち、次第にめんどうなことに気づかされていく。つまり「怪物が分かったとしてどうすればいいのか?」と。
キャッチーだからつかまれるが、つかまれたあと投げかけられたものの巨大さに立ち尽くしてしまう。

まず、「怪物とは誰か?」
探すには「多様な視点(横の視点)」と「深い視点(縦の視点)」が必要になる。

「横の視点」とは岩井俊二ではないが「燃えてるビル、東から見るか?西から見るか?」に象徴される視点のことだ。より具体的には「いじめ事件」を、母(安藤サクラ)の目からみるか?学校(田中裕子)や教師(永山瑛太)の目からみるか?そして、子供(黒川想矢&柊木陽太)の目からみるか?を指す。

で、その視点で探すなら「怪物などいない」。より丁寧に言えば、母、校長、教師、生徒にはそれぞれ「事情」があるため「誰が怪物とは名指せない」と。こんな感じの答えになるんだと思う。

つまり、母は「教師が息子をいじめた」と”真実を見ず”学校を責めるが、それは「怪物」だからではなく「家族を守りたい」ため。「家族にとって味方か敵か?」で物事をみてしまうという事情があるからだと。

一方、教師は「むしろ、いじめているのは息子の方だ」と”真実を見ず”母と対立してしまうが、それは「怪物」だからではなく「(自分が思う)理想の教師像を守りたい」ため。「理想にとって味方か敵か?」で物事をみてしまう事情があるからだと。

また、校長は人の心を失った「コンプラの奴隷」のような態度をとり続けるが、それは、「怪物」だからではなく、自分の良心に従えなかった「負い目」があるため。自分がズルをして「塀の中」に入ることから逃れたのに「人の良心」など持つ資格はないと。社会に「見逃してもらった」ため「社会の死守にとって味方か?敵か?」で物事をみてしまうのだと。そういう事情があるからだと。

そして生徒たちも時にはウソをついてしまうが、それは「怪物」だからではなく「いじめ空間から生き延びる」ためなのだと。

なので「怪物の暴力」は確かにあるが「そいつはどこにいるんだ?」と問われれば「指させない」のだ、と。
そう言われると「空振り」感もあるが、、少なくとも「怪物は誰とかそういうことじゃないんだな」ということがわかって来る。

そこで「より深い視点(縦の視点)」で「怪物」を探してみる。これは、いわば、解像度を上げていく観方。もしくは、猫を葬るため土を掘るように、地上→地下→マントルと、奥深く「映画という地層」を掘り下げていく観方とでも言えばいいか。

それは映画でいえば「なぜビルは燃やされなければならなかったか?」を問うていくことだといっていい。

その視点で映画を観て行くと、次第に、ビルが燃やされたのは「社会のせい」じゃないか?と見えて来る。つまり前半描かれる「壊れたロボット」のような学校側の対応に象徴されるように、社会が「壊れて」しまったためではないかと。

社会は人間のためにあったはずだが、一度動き出したら「社会のために社会がある」状態になっていく。「人間の事情」より「社会の事情」が優先されていく。そんな壊れた状況に「人間」が押しつぶされてしまったからだと。そんな社会がもたらした「軋み」が「炎」となったのだ、と。

けれど、さらに映画を観て行くと、今度はそんな社会を生み出した「人間側の事情」がみえてくる。それは「区分したくなる事情」とでも言えばいいだろうか。

たとえば映画に出て来る母は「人の心を持つ自分」が「人の心を持たない学校」に押しつぶされると苦悩するが、彼女自身も「風俗に行かない清い教師」/「風俗に行く不純な教師」と人を「区分」する。

また、「正しい”み”」と「鏡文字の”み”」を区分し「正しい方」が書けない少年をたしなめる。意図的というより無意識にそうしてしまう。

一方、男性教師も本の「誤植」と「正しい字」を区分して嫌味を言いたがるし、「理想の教師像」と「ダメな教師像」を「区分」する。無意識にそうしてしまう。

そして、生徒の父親(中村獅童)も「いい大学/普通の大学」、「いい給料/安い給料」などと執拗に区分する。

さらに、映画の後半には、この「区分したくなる欲望」が、これから社会の一員となっていく子供たちの心にも刻み込まれていく様子が描かれる。

映画は「元気な少年(正解)/なよなよした少年(異物)」という区分に基づいて「異物の排除(いじめ)」を行う子供たちを映し出す。
・そういうと「区分する側(いじめ側)」と「区分される側(湊&依里)」がバシっと分かれるように聞こえるが、映画はそうなっていない。

秘密基地のバスの中では、豚にでも、ナマケモノにでもなれる=「区分を超越できる」かにみえた少年の心にも「それ」があることが描かれる。
少年(湊)は、自分の中に芽生えた「男子(依里)への恋心」に気づいたとき、それを「異物」だと捉えてしまう。そして「区分する側」に立ってしまう…。

…とするならば、どうやらこの「区分したくなる事情」が人を苦しめているんじゃないか?そこからもたらされた「軋み」が「炎」となったのではないか?

つまり「怪物」とは「区分したいという欲望」だったんじゃないかと。「深い視点(縦の視点)」で映画を観ればそんな光景が浮かび上がる。

そして映画は、そんな「区分に彩られた社会」を丸ごと吹き飛ばす。文字通りの「暴風」によって。映画では、風に導かれた少年たちが再び「区分のない世界」の側につれもどされる。映画内で印象的に描かれる、風、湖、緑、炎の側に連れ戻される。そして、緑、風、水、人…が共存する「区分のない世界」を描き出して幕を下ろす。

それは「感動的」な光景ではある。

けれど、問題なのは、これをどう考えるか?ということで。
いや、「そうだそうだ!」「区分なんていらない!」とバッサリ言えれば苦労はない。けれど、我々は区分のない世界を生きられるのか?

例えば、映画には「鏡文字」が印象的に描かれるが、我々は「間違った”み”」でも「”み”」だと認識できる。それは最初に「”ま”とは違う”み”」という「区分」を刻み込まれているからで。つまり「これが”ま”で、これが”み”で…」と区分を植え付けられるから物が認識できる。
仮に「ま」だろうと「み」だろうと、どうでもいいじゃないか?区分なんてつまらないよ?と言ってしまったとしたら。そもそも話もできなくなってしまう。

映画で言えば、土や、川や、カメムシの区分なしに水筒に詰め込んで、水を飲めるのか?ということだ。

(余談だが)今国会では「LGBT法案」を巡り「そんなことをしたら女風呂に男が駆け込むぞー」なんていうやりとりが真剣になされたが、これもバカバカしいとはいえ、その「恐怖の根源」には「区分のない世界を人は生きられるか?」という問題が潜んでいるんだと思う。

さておき。ごちゃごちゃ言ってきたことをまとめると、こうなるんじゃないか?
つまり、まず、区分のない世界がある。しかし、それでは生きられない。そこで区分する。しかし、分け方にたいした根拠はない。それでも、分けられずにいられない。それだからこそ「この分け方がルールです」「なぜですか?」「それがルールだからです」のような「質問に答えない政府答弁」のような社会がもたらされる。
しかし、そのような社会は正直「まとも」ではない。だからこそ「火」が呼び込まれるのだと…映画はそう言っているように思う。

では、そうした状況を変えるにはどうすればいいのか?
映画は、人々が「怪物(別の人類)」に生まれ変わればいいという。そして、その先にあるのが「”誰かにしか手に入らない幸せ”しか手に入らない社会」を乗り越えた社会、すなわち、「”誰の手にも入る幸せ”を誰もが手に入れられる社会」なのだとも。そして校長と生徒は「怪物のいななき」のような「ホルンの音色」を世界に響かせる……。

この巨大すぎるメッセージに、どんな言葉を返すべきか?少なくとも自分にはキャッチーな答えを返せる自信はない。
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