うべどうろ

怪物のうべどうろのレビュー・感想・評価

怪物(2023年製作の映画)
3.4
「怪物だーれだ」

もう、まずもってこのキャッチコピーがすごい。
怪しくも子供らしく、
おどろおどろしくもいとけない。
この作品に通底している二面性(あるいは多面性)の象徴のようだ。

僕がこの作品で好きだったのは2つ。
1つは、いい意味での「裏切り」だった。
冒頭から鑑賞を進めていると、まずもって、「いつもの日本映画だ」と少し嫌な気分になった。登場人物がみな、不幸を抱えるあまりに人格が破綻しているような気がしたからだ。そうした悲劇的な人間関係の中で展開される、お手本とでもいうべき「不条理」が観客に襲いかかる。目を背けたくなるような人間の「暗」の心情が、天才脚本家・坂元裕二の巧みなそして真正直なストーリーテリングで語られていく。

かのように見えた。
それこそが、この作品の「裏切り」だった。
孫を亡くしたことで闇を抱えた校長。
婚約者とうまくいかないことで精神に破綻をきたす教師。
子供への強い想いのあまり暴走する母親。
原因と結果が目にみえる形で結ばれた人物描写のように見える。
しかし、それこそが、この作品が問いかける「偏見」だった。

ある人が「狂っている」かどうか。
私たちはどう判断するのだろうか。
あるいは、私たちに判断することはできるのだろうか。
この作品が、一見すると物語そのものが要請しているとは思えない「羅生門形式」で描かれた意味は、まさにこの「裏切り」にあったのだと思う。

そして、それを見事に演じきった俳優陣の力量である。
永山瑛太の微笑みのもつ狂気、
田中裕子の徹底して感情を拝した無表情。
そのどれもが、観客一人一人に問いかけているのではないか。
「あなたは、私を怪物だと思いますか」と。

もう1つは、オープニングだ。
ファーストカットが映し出される前の音である。
錯覚とも思える(あるいは、本当に錯覚かもしれない)謎の鳴動が、静かに、不穏に、劇場を震わせる。冒頭のシーンを見ると、この音は火事の予感のようにも思えるが、きっとそれは違うのだろう。最後のシーンを見ると、それが確信に変わる。
きっとこれは「希望」の映画なのだ。
だからこそ、監督は、脚本家は、この音を物語の初めにもってきたのではないか。そう、この鳴動をもって、作品世界全体が「生まれ変わる」ように。あるいは、「生まれ変わらないもの」として刻まれるように。
この鳴動は、ビッグクランチの音なのだ。

現実的な意味でこの鳴動を考えてみると、それは「土砂崩れ」であることは言うまでもない。では、「土砂崩れ」とは何か。表層にあるものが流れ落ち、その下のものが剥き出しになることだ。では、この作品で、流れ落ちたものは何か。あるいは、流れ落とそうとしたものは何か。
そう考えてみると、やはりこの映画を貫くべき音は、あの鳴動なのだ。

最後に。
僕が人生で一本だけドラマを選べと言われたら、間違いなく「それでも、生きていく」を選ぶと思う。ずーっと、ずーっと坂元裕二は憧れだった。カンヌ映画祭の脚本賞を受賞したときに、なんだか僕までとても嬉しくなった。それは、「それでも、生きていく」と言葉をかけてくれたあの坂元裕二への感謝なのかもしれません。

最後に。②
この映画で1カット、とてつもない映像があったように思う。それは、安藤サクラと永山瑛太が子供たちを探しにいくシーン。カメラは列車の中に置かれ、二人が必死に窓の土砂を振り払う様子が描かれる。しかし、外は土砂降りである。いくら手で払っても、それは暖簾に腕押し。降りしきる雨粒が、窓の空白をかき消していく。そして、映像のなかには、その窓しか映し出されない。極限まで禁欲的で、同時に欲深いカットではないか。こんなにも美しく、容赦のない雨を描写したカットがあっただろうか。

最後に。③
冒頭、タイトルが映し出されるまでの言い得ぬ緊張感がどこからくるのだろうかと感じていた。恐ろしい映像が表出しているにもかかわらず、どこか崇高な印象すら抱かされる。そのとき、僕は思い出す。そうだ、坂本龍一の音楽だ。今後、坂本龍一がその繊細な音楽で映画世界を彩ることがないかと思うと残念で悲しくてなりません。心よりのご冥福をお祈りします。
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