しゃりあ

怪物のしゃりあのネタバレレビュー・内容・結末

怪物(2023年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

偏見、とは言いかえれば、それまで生きてきたなかで培われたパースペクティブであり、それ自体に善悪はない。

脚本は物語の構造をメインに構築されているので、観客に鑑賞を委ねるというよりはもっと一義的であり、ストーリーテーリングに重きをおいて構築されている。

話を構成する要素は毒親、教育現場、クィア、発達障害などマジで流行りのエッセンスであり、そこに誠意があるかはどうかが結構議論の的になるだろうなとは思う。
特にこれらを主眼として置いた話なのかといわれるとそうではないし、後半が種明かしパートのようになっている上、上記に書いたようなつくりなので、特に「これやっとけば良いんだろ」と言われるような感じも確かにする。

が、振り返って、みなとの抱える「問題」であるクィアも、それが問題となるのは、それを良しとしない(であろうと母は考えているというみなとの)視点(「ごめん、お父さんにはなれない」)や、堀先生の何気ない「男」推しの考え方があるからだし、
もっといえば、星川の父の、星川よりを豚扱いしてしまう視点だって、背景には当然この父の、それまでの当たり前と現状の齟齬が存在しているはずだ。
もちろん母の対応も、堀先生の対応もすべてそうだ。

細かなディスコミュニケーションが続き、(堀とその彼女の話すらそう)、まるでそれらの問題の根本はディスコミュニケーションに収束するように思える。偏見とは先入観であり、それを廃してもっと他人としっかりと向き合う方が良いというメッセージにまとめたくなる。

脚本上展開されるミスリーディングも含め、「実はこうだった」という構成は観客に冷水を浴びせ自省を促すつくりになっている。
特にみなとのクィアの話に関しては、「生まれ変わったのかな」「そういうのはないよ もとのままだよ」「ないか よかった」というセリフによって、ビッグクランチによる「生まれ変わり/生まれ直し」の否定で終わるので、「(わたし/だれかの偏見に対峙したとき)あなた/わたしはそのままで良い」というストレートなメッセージとして観客に還元される。

ただ、これを星川の父や、校長や、学校の対応に対して反抗しなかった(事実に気付かなかった)堀先生や、母の話に広げてみたとき、「そのままで良い」が最適解かどうかは分からない。

タイトルに引っ張られつつ、何が「怪物」なのか考えてしまえば、俯瞰して突き詰めてみたとき、そのどんづまりには学校の対応の適当さがあるかもしれないし、「ディスコミュニケーションが「怪物」を生むのだ」としたくなるかもしれないが、そもそもそういう話でないことが分かるようにはなっている。
それぞれの諸問題の始まりは映画内時間に収まるほど瞬間的な問題ではなく、もっと長い時間を描けて素朴に生まれ、故に根深い問題として横たわる。

びっくりしたのは坂本龍一の自身の曲が普通に挿入曲としてかかるところ。
hibariもaquaも両方、最も好きな曲だったので驚いた。

それにしてもこの映画は特に台詞回しが良かった。特に重要なシーンでない部分の掛け合いが良い。
星川との「自販機3回に1回あったかいがでるんだよ」のところや、「ダサいニット」のところなど。

むしろ関係性におけるイノセンス(≒是枝の"こども"感)はこういった瞬間に宿るものであり、それはおれが読み取ったものだとしても、ディスコミュニケーションを「直す」というよりかは、こういった掛け合いが「ある/ない」の方が重要なようにも思える。

ラスト、走り出すことは、生まれ直していないことからも、始まりであることではない。それは単に生を謳歌することであり、それを互いに共有することだ。