みりお

「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たちのみりおのレビュー・感想・評価

5.0
「学校が、子どもの命の最期の場所になってはならない」

東日本大震災のあの日、津波によって教員・児童含めて84人の命が喪われた大川小学校。
誤った避難誘導がなければ生き残れた命。
その事実を遠ざけられ、子どもたちの命を守れなかった理由を隠され続けてきた被災者遺族が、10年以上かけて津波裁判を乗り越えた記録の物語を、ご遺族が撮り続けてきた1000GB以上の動画データを基に作られた作品。
冒頭の言葉は、被害者遺族が起こした裁判に、仙台高裁が判決を下すときに、裁判官が発した言葉だそうです。

主な映像提供者である只野さんは、奇跡的に助かった4人の生徒のうち1人の男の子のお父さまで、ご自宅も流されてしまい、奥さまも小3の娘さんも亡くされています。
全てをなくしたあの日、会社においてあったUSBに、僅かに家族の映像が残っていたのを観て、「記録に残さなければ」と震災以降カメラを回し続けたそうです。
誰かに観せるためではなく、正しく後世に残すために回され続けたカメラ。
その存在価値に寺田監督が目を付け、震災から10年以上が経過した今、あの震災を風化させないために映画化してくださったそうで、この作品を映画館で上映するという行動に寄与してくださった、すべての活動・想い・奇跡に、頭が下がる思いです。

あのとき何があったのか。
あのときどうすればよかったのか。
事なかれ主義の大人たちによって、嘘を嘘で塗り固めた結果、大川小学校の跡地が遺構になるまで、実に10年の月日を費やしたそうです。
不都合な事実であろうと、そこで犠牲になった命を無駄にせず、反省や教訓として活かしていくためには、絶対的に必要だった"向き合う"ということ。
それに市や県、そして国が取り組まなかった代わりに、同じ被災者である被害者遺族が取り組んできてくださった事実が、フィルムに残っていることに、心から感謝したいです。
そしてどれほどの月日が経とうとも、被災者の方にとって復興は過去のことでなく、今のこと。
それを記録に残して後世に伝えていくことの大切さを、ひしひしと感じました。

昨年の秋にたまたま大川小学校の遺構に行く機会に恵まれ、子どもたちが避難を目指した三角地帯も、あそこに登れば助かったのに…という高台にも、この足で立ってきました。
研修の一環で、この地域でビジネスを成り立たせるためには何ができるか、ということを半年間死ぬほど考えてきたので、私は震災の被害を肌で感じてきたつもりでした。
けれど、あの場所が遺構になるまでの10年間闘い続けてきた遺族の方たちの想いを知ったいま、この事実はまだまだ行政によって隠されていると感じます。
幼い子どもたちが生きたかった命の重さは、補償金でそもそも換算していいものなのかわからない。
けれど「補償金の額を示さないと遺族として訴訟を起こせない」という現代日本の司法に対して、遺族たちはやむなく子どもたちの命に、1億という値段を付けたそうです。
我が子の命に値段をつけるという行動は、どれほど辛く、虚しく、心が痛いことだったか…
けれどそこまでの過程が正しく報道されない日本では、「金目当てだ」と遺族が脅迫される事件さえ起こったそうです。

それは被災者以外にとっての震災は、過去になってしまったからだと、私は思います。
被災していないエリアに住んでいて、あの地獄のような光景を観ていない人にとっては、10年という月日は長すぎて、忘れてしまうということを責められないのかもしれません。
けれど事実が正しく伝えられることによって防げることは、まだたくさんあるはずです。
多くのものを失った被災地・被災者の方たちに私ができることはなにか、私自身は考え続けたい、そして小さなことでもいいから行動を起こし続けたいと、改めて思わせてくれた作品でした。
その決意に変える意味でも、念願の1000本目の投稿にこれを選べてよかった✨


【ストーリー】

東日本大震災で多数の犠牲者を出した宮城県石巻市の大川小学校を題材に、遺された親たちの10年に及ぶ思いを記録したドキュメンタリー。
東日本大震災で、津波にのまれて全校児童の7割に相当する74人の児童(うち4人は行方不明)と10人の教職員の命が失われた大川小学校。
地震発生から津波到達までは約51分、ラジオや行政の防災無線で情報は学校側にも伝わり、スクールバスも待機していたにも関わらず悲劇は起きた。その事実や理由について行政からの説明に疑問を抱いた一部の親たちは、真実を求めて提訴に至る。
わずか2人の弁護団で、いわれのない誹謗中傷も浴びせられる中、親たちは“我が子の代理人”となって証拠集めに奔走する。
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