【犠牲】
「♪いっちねんせ〜になった〜ら、いっちねんせ〜になったら、トモダチ100人できるかな…♪」
この歌の矛盾に気がつきますか?
トモダチ100人できるかな?の後に「♪100人で食べたいな。富士山の上でオニギリを♪」って続くんですけど…
おかしくないです?
100人の友達とおにぎりを食べるなら、自分を入れたら「101人で〜」ってなるはずなんです。
…これってよく考えたらおっかない歌なんですよね…😩
この歌が作られたのは戦後間もない頃らしいんですが、当時の食糧事情は決して裕福とは言えない時代だったんですね。
そこで歌われる「オニギリ」の意味って…。
「みなに幸あれ」
全ての人間が等しく幸せであるということは理想的ではあるけれども、現実問題として鑑みたとき、そこまで順風満帆な話はなかなかない。
どこかで「じゃない人」がいて、そのお陰で自分が幸せを享受できているのかもしれないということはあまり考えられない、というか、皆あえて目を向けようとはしない。
もしかしたら、一人の犠牲の上に、残り99人の幸せが成り立っているものなかもしれない…。
自分のプラスは誰かのマイナス…
そんなのだめだよ!
誰かを犠牲になんてできない!
でも、それってただの綺麗事なんだろうか?
誰かの犠牲の上に自分の幸せが成り立つという構図があるなら、そのまた逆も然り、誰かの幸せのために自分の犠牲が伴うということもいえるのではないのか?
「みなに幸あれ」
ねえ、あなた、今幸せ?