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霧の淵のbluetokyoのレビュー・感想・評価

霧の淵(2023年製作の映画)
3.9
なにがなにやらさっぱりわからず、とっかかりもなくて、いったいどうして欲しいのだ、と考えあぐねてしまう。いったいなにがしたいんだ、そうだ、これって、冒頭に、良治が咲に投げ付けた言葉だった。咲は「旅館を続けたい!」そう答えていたではないか。それにしても、咲の娘のイヒカもよくわからない。前半はほとんど黙ったままだ。シゲ爺のことを、シゲ兄と呼んだりする。不思議だが、そのまま、シゲ爺は、若くなった気がするわい、などと答えて平気である。まさに、五里霧中な雰囲気だ。そうか、タイトルの「霧」って、そういうことか。

前半はとりあえず、食べるシーンが多い。寡黙なイヒカも、食べることは食べる。食べるシーンが印象的なのは、鈴木清順監督のツィゴイネルワイゼンだ。ツィゴイネルワイゼンにおける食べるシーンは、死に対する「生」の暗喩に思える。とすると、この映画でも、食べたり、宴会したり、というシーンは、死に対する「生」なのだろうか。

そう考えると、そもそも、シゲ爺というのは、この世のものなんだろうか、とも思えてしまう。
シゲ爺の隠れ家的な別宅?は、普通の山道から脇道に入った先にある。しかも、その脇道は通行止めになっている。さらに、咲はその脇道に来たことはないそうだ。シゲ爺の別宅に入って見ると、いつの間にかシゲ爺?の写真があったりする。ないと思ったらこんなところにあったのねと咲は呟く。もともと写真なんて、最初からなかったのかもしれない。

むかしの華やかな祭りの屋台と朝日館の座敷(咲、イヒカ、シゲ爺の住んでいる家屋は通りを挟んで向かい側?)。サウダーヂに出てきたバブル華やかしころの甲府の街並みみたい。ノスタルジックな華やかさなのだ。

単純に、この映画は、咲、イヒカ、シゲ爺のうちに誰かの空想世界、インナースペースというわけではないのだろうな。とりあえず、霧は、空想であることの暗喩なんだろうけど。たとえば、むかしの華やかで賑やかなシーン。なんとなく、シゲ爺が懐かしんでいる時代に見えたが、けっこう、新しいものも混ざっていたりして、いったい、いつなんだよ、と思ってしまう。懐かしいということの総体なんだろう。

後半、イヒカは、一転して、能弁というわけではないが、話すようになる。同時に、シゲ爺は姿を消す。イヒカが寝入っているときに姿を現す。このシーンがいいシーンだったりする。ノスタルジックな音楽が流れている。

最後、咲が、厨房で魚の煮つけを皿に盛り付けている。ふと、イヒカを呼ぶ。イヒカは、近くにいるわけではなく、外にいる。なのに、イヒカが、振り返る。そこで映画は終わっている。
これは、咲とイヒカが親子ではなく、同一人物であることを示しているのかな。違うかな。

消え去ろうとしている朝日館自体が浮かび上がってくるということか。
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