ヤドカリ亭

波紋のヤドカリ亭のレビュー・感想・評価

波紋(2023年製作の映画)
3.4
『波紋』
私が今住んでいる部屋は家族が住まうには少々狭い。しかも物が溢れている。にも関わらず、物の位置はキチンと定まっている。

不思議なことに脱ぎ忘れたスリッパはいつのまにか玄関に戻っている。しまい忘れた爪切りは元の小物入れに空間移動する。

たとえば僕がキッチンでコーヒーを淹れたとする。テーブルまで運ぶ途中でコーヒが数滴こぼれた。その瞬間に嫁がスルスルと近寄って来て、足下の水滴をササッと拭き取り去っていく。

こうして我が家に発生した波紋は収まる。まるで僕が最初からそこにいなかったかのように。この状況にはときどき我慢できなくなる。

だから喧嘩をすれば「あなたは結局、僕がいない方がイチバンいいんだろう!?」などと日本語文法を無視した言葉でやり返す。

もし『波紋』の台本のト書きに「須藤修:椅子に寝て新聞を読んでいる」とあれば、そのシーンでは椅子、テーブル、新聞、須藤修、だけしか存在しない。テーブルの上には何も無い。映画の中の須藤依子の家には生活臭というものが全くないのだ。

つまりこの非現実的な部屋のシーンは家族の様子を再現しているのではなく、須藤依子の空虚な内面を写し出している。

「須藤依子」はおそらく監督自身が自己分析した結果から導き出したキャクターなのだろう。

物語の焦点は須藤依子の悪意であり、介護とか更年期障害、カルトや親子の問題は舞台装置としての書き割りにすぎない。

須藤依子は一度だけ生身の人間になる。水木さんの部屋を片付けた時、仏壇に水木さんの亡き息子の写真を見つける。「息子はどこかへ消えた」と強がる水木さんの苦悩に共感し須藤依子は嗚咽する。「私の息子も消えた」

最後のシーンは監督が女として、映画人としての決意を表明したのだ推測する。

男はどうせカマキリよ。雌に食われてあの世行き。女は黒い喪服に赤襦袢、裾をからげてフラメンコ💃オ〜レッ!👏パパン👏パンッ!

2024年3月19日
ヤドカリ亭

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