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最後まで行くのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

最後まで行く(2023年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

「追いかけられる側から描けばホラーになるし、追いかける側から描けばコメディになる。やっていることは同じだが、カメラを向ける方向が違うだけ」とは「漂流教室」や「まことちゃん」でおなじみ、楳図かずお先生の金言だ。

この映画もそんなところがある。

主人公の視点でみれば、切羽詰まる状況が次々と押し寄せる「連続スリルストーリー」なのだが、観ている側からすれば「ピンチ逃げ切り劇場(笑)」にみえてしまう。本作はそんなシビアかつ笑える力作「サスペンスコメディ」となっている。

実際映画では、シリアスな音楽と共にカメラが主人公へにじり寄ったかと思えば、突然、パッと脱力的な引きの映像に切り替わる。この「寄り(深刻)」と「引き(笑い)」のリズムが心地いい。

そして、この「寄り(主観)」、「引き(俯瞰)」こそが、映画のテーマでもある「砂漠のトカゲ」とも大きく関わってくる(ように思われる)。

あらすじを追っておけば。映画は某年の12月28日から翌1月1日までの4日間を描く。主人公は、愛知県埃原警察署の刑事・工藤(岡田准一)。彼は12月28日の夜、車を走行中、次々と「ピンチ」に見舞われていく。妻の電話から「母の危篤(後に死亡)」が告げられたかと思えば、署の電話からは「裏金問題への関与」を問い詰められる。そのうえ不注意から人まで撥ねてしまうのだった。以降、「母の葬儀」を進めながらも「裏金問題」を隠し「はねた死体」を隠し通すという「シビれる展開」が続くこととなる。

そんな中、現れたのが、愛知県警監察課の矢崎(綾野剛)。もう1人の主役だ。彼は自分の「手下」として使っていた「半グレ青年・尾田(磯村勇斗)」を追っていた。尾田には、政治家たちが宗教教団への「お布施」という名目で浄化(ロンダリング)した金の管理・監視を命じていたが、裏切られてしまう。半グレ青年は、金を保管した金庫の指紋パスワードを書き換え逃亡してしまったのだった。

実は矢崎は県警本部長の娘と婚約中。その本部長は政治家達のマネロン計画に深く関与する人物。だから金の管理をしくじれば、婚約破棄となり、「上級国民」への道が閉ざされる…。そのため血眼になり半グレボーイを探していた。

だが、その半グレこそ、工藤が車で撥ねた「死体」。母の安置所にやってきて「お前は砂漠のトカゲなんだよ」と意味深なことを言うヤクザの仙葉(柄本明)の「噂話」をきっかけにそのことが浮かび上がる。

以降、「死体の在処」に気づいた矢崎と工藤の熾烈なバトルが展開していく…という筋立てとなっている。

ヤクザの口から発せられ、映画の通奏低音ともなっていく「砂漠のトカゲ」とは何か?

「砂漠」とは「昭和的なモノの残骸が広がる場所」のこと。「トカゲ」とは「そこでしか生きられない人たち」のことだろう。そこ=「砂漠」では、「甘い汁」を吸うことが難しくなっている。つまりはカラカラだ。汁を吸えるのは昭和世代だけ。汁が滴ることを期待していた平成世代に、それは落ちてこない。ましてや令和世代に至っては滴ることなど期待されてもいない。「汁など、吸っている奴の寝首をかいて奪い取るものだ!」という認識になっている(闇バイトなどを想起されたし)。

「かつてのやり方」で吸えていた汁はもう吸えない。政治家は、ポストや利権誘導と引き換えに警察へ「汚れ仕事」を頼み、警察は「シノギの黙認」と引き換えに暴力団へ「汚れ仕事」を頼んできた。
そのように取り締まる側と、取り締まられる側が「持ちつ持たれつ」「なあなあ」「あうんの呼吸」で絡み合うことで、「甘い汁」は上から下へと滴り落ちてきていた。

けれど時代は変わった。「暗黙の掟(持ちつ持たれつ・なあなあ・あうん)」から「明文化ルール(コンプラ・ガバナンス)」へと変化した。
それでも。「かつてのやり方」しか知らなければ「新たな汁の吸い方」はできない。「新たな汁が出る場所」へ移動することはできない。だから、古い場所はますますカラカラになっていくし、それが分かるヤツらは「逃げ切り」のために金をため込んでいく。だからますます、下に甘い汁は滴り落ちない。

映画で描かれる2人の刑事(岡田准一、綾野剛)は、そんな「昭和の残骸」が広がる場所=「砂漠」で生きる平成世代の「トカゲ」たちだ。
そのため、一方は「今までやって来たやり方」を続けているつもりが「裏金警官」とつるし上げられる事になる。また他方は、「上」が吸っている汁を吸うべく「上(上級国民)」に潜り込もうとするが、「令和世代(磯村勇斗)に寝首をかかれる」という1つのヘマをきっかけに滑り落ちていく…。

もう「それまでのやり方」でやっていても汁はしたたり落ちてこない。それでも「それまでのやり方」しか知らないため、そのやり方で汁を欲し「もがいて」いる。

そんな状況は、当人たちからすれば「シビア」だが、引いてみれば「コメディ」だ。逆に言えば、「寄りの視点」しか持てないために=「引いた視点」を持てないために、自分たちが、砂の熱さに「アチチ」「アチチ」と手足を上げながら生きる「砂漠のトカゲ」であることに気づけないでいる。

そして2人は、文字通り残骸(骨が埋まる寺の墓場)の上をトカゲのように這いまわりながら、転げ落ちていくのだった…

では「引いた視線」を持てれば2人の人生は変わったのか?というと、そう単純でもないところが、この映画のミソである。

映画では「砂漠」に”雨が降った”日、主人公は苦悩と共に自らの人生を振り返る。また、”1年を振り返る”日、もう1度人生をやり直そうと考える。「自らを振り返る」という引いた視点を持つこともあった主人公。それでも結局のところ、彼は「砂漠」を離れないのだった。

というのも。仮に「引いた視線」を持てたとして。自分たちが「砂漠のトカゲ」だと気づいたとして。

それでも「どこもかしこも昭和の残骸」であればどうだろう?「砂漠」を移動してもまた「砂漠」だとすれば。実際、「昭和的なものの残骸が広がる場所」は政治界隈や警察界隈ばかりではない。言ってしまえばこの国全体がそうだ。

ならば「引いた視点」を持ったとしてどうなろう、と。「さらに引いた視線」を取ればそんな光景がみえてくる。

だからこそ映画は、ラスト、車体をぶつけ合いながらもがくように進む主人公たちの車を「大俯瞰」(さらに引いた視線)で捕らえ、「最後まで(砂漠を)行く」と言うほかないのだ。その空は快晴だ。砂漠化がさらに進んでいくことは疑いない…。
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