しおまめ

君たちはどう生きるかのしおまめのネタバレレビュー・内容・結末

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

「(引退宣言について)今度は、本気です」

生前の高畑勲監督からは
「長編アニメーション監督なんていないよ。長編はやらないけど短編はやるの?」
「なんで会見なんでやるんだろう?わからない」
とツッコミを入れられていた10年前の宮崎駿の引退記者会見。
それから噂程度の作っているらしいという曖昧な情報だけが漂った数年後の今、公開された今作は、宣伝という宣伝を一切打たず、
物語も声優も主題歌も秘匿された。
ジブリのプロデューサーである鈴木敏夫は今回のこの態勢についてを「博打」と表現し、
まっさらな状態で見てほしいと語っていた。



冒頭から舞台は「風立ちぬ」に近い、軍拡が進む日本ということがわかる。
ただ今回は「風立ちぬ」の二郎のような技術者が主人公ではなく、むしろ立場的には二郎と菜穂子の間に生まれた子が主人公と言った方がわかりやすいかもしれない。
今作は前作と違い(裕福ではあるが)普通の子供が主人公と言える。

宮崎駿作品、特にここ20年の作品群は物語的な必然性よりもアニメーションを重視したうえで、自らの思想をぶつける特徴がある。
「風立ちぬ」なんかはその最たる例ではあるが、今作はまさかのファンタジー作品に立ち返っており、過去作でいえば「ハウルの動く城」に近い。
しかしながら物語の起点となる主人公の眞人の父親は軍の兵器開発者であるうえに、妻を火事で亡くした3日後には新たな妻を迎え、更には既に子を宿している状態。
更に更に、亡くなった妻の妹を再婚相手にするという滅茶苦茶ぶり。
このぶっとんだ設定をシレっと入れていくあたりは宮崎駿らしいと言えばそうだが、作中で描かれる“男達”の描写は、武闘派じみていて観ているコチラが少しハラハラしてしまう。
それは主人公の眞人も同様に。

当時の男達がいわゆる武闘的だったことが男らしいとした一方で、女達はおしとやかだが男や子を支える存在として描かれる。
特に世代を超えた年寄り達はとても優しげに描かれているが、もとより宮崎駿の作品にはこういった猛々しいが危うい男と、
おしとやかで美しく、支える女と、
知恵を与え、優しく触れ合ってくれる婆がおり、
そこで描かれる男達の愚かさと女達のひたむきさ、年寄り達の優しさという個人的な思想が入り込む。

ビジュアルにも描かれているアオサギも、作中出てくる多くの鳥達も、
冒頭の日本軍の描写を見た後では、それらがつまり“猛々しい男達の集まり”だというのがわかるが、その鳥達が攫われた夏子を喰ったか否かという描写は、性的な暗喩にも聞こえる。
なぜなら眞人の父親がまさしく軍関係者でありながら妻の妹を嫁に貰い、更には元妻が亡くなる前から肉体関係をもっていたからだ。
そのグロテスクなまでの男達の描写に呼応するように、夏子は叫ぶ。

「あなた(眞人)なんか大っ嫌いよ!!!」

これ以上の描写はないものの、自分の夫が姉の元夫であり、姉が亡くなる前に子を自分の腹に宿した男の連れ子という関係に、並々ならぬ想いがあったことは想像しやすい。


一方でこの夏子の造形が明らかに女性の魅力をやり過ぎなぐらいに描写しているところも気になるところ。
「風立ちぬ」では病に伏した菜穂子が化粧をしていることが描かれたが、今回の夏子は化粧の描写を入れていないにも関わらず、常に口紅が塗っているかのような描き方だ。
その夏子が叫んだ直後の画面が暗転した後の物語は、明らかにそれまでの物語から逸脱した別の物語だ。
まるでスピリチュアルかのような言葉が羅列し、世界を積み木に見せかけた石で表現する画はもはや意味がわからない。
しかしながら、夏子を探して迷い込んだ死の世界のファンタジックな装いや、夏子自体が“宮崎駿が考える最高のイイ女”のように描かれていることからするに、そこから先の物語はアニメーションそのものについて語られているようにも見えた。

抽象画(キリコ?)のような世界を抜けた先や世界とする積み木(積み石)。
宮崎駿はアニメーションを作りながらアニメーションを否定していたことも有名な話。積み上がった石の玩具に対して積み木と言ったことを眞人が石であるとツッコミをいれたのは恐らくは宮崎監督のアニメに対する姿勢であろう。
(震える積み木(石)をなんとか組み上げて「これで世界は一日保たれた」という描写は、まさしく齢80を超えて筆圧も衰えて濃い鉛筆を震えながら紙に世界を映し出すアニメづくりそのもの)
墓石にも使われる石を使って積み木という子供達の玩具を偽り作るというのは、
宮崎駿がこれまで理想像として石を木に見せかけた、命を吹き込むという意味でのアニメーションだ。
ナウシカやシータといった“宮崎駿が夢想した女性”は、今回は夏子としてその役割を担わせる。故に夏子はいつも美しい。
そしてそれを眞人に「継いでほしい」と。


前半は男達のグロテスクさ。
後半は自らのアニメーションに対する姿勢とその継承、あるいは崩壊。
言うなればそれは、アニメーションは軍拡時代の日本のように負の産物であるとでも言いたいのか。
美しく整った石の積み木を貰い受けようとしたところを、王がメチャクチャに積み上げた末に叩き割ってしまう様は、
ジブリのプロデューサー鈴木敏夫がぶち壊したと言っているかのように見えたのは考え過ぎだろうか・・・?

だが、クライマックスに現実には存在しないファンタジックな城をぶち壊して尚、
眞人に美しい夏子との帰る道を示したのは、
“開店閉店状態”のジブリから離れた、我が息子あるいは元ジブリスタッフに向けた「君達の生きたい方向へ」という思いがあったのかもしれない。



ここまで書いておきながら身も蓋もない話をすると、
ひとつの物語として色々とメチャクチャであることは事実だ。
否定した夏子がクライマックスでは普通に和解してるし、ファンタジックな世界であるが故のトンデモ描写の数々が物語の説得力を無くしているわけだから。
単純な話で見れば酷く都合がいい話だ。なんせ夏子の姉の夫との不倫関係を見て見ぬ振りして終わらしてしまったのだから。

だが、宮崎駿というネームバリューがそう単純には見させてくれなかった。
ある種、老境の末に死を意識するようになった監督の、己と最後に向き合うための作品だったとも言える。

エンドロールには息子の名前がちゃんとあった。
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