葛西ロボ

君たちはどう生きるかの葛西ロボのネタバレレビュー・内容・結末

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

長いな〜盛り上がらんな〜と思いながら中盤以降は絵の動きの良さだけで観続けられた。

本作が空襲と疎開から始まるのは、年端は違えど、宮崎駿の幼少期の経験から来るものだろう。病弱だった母親の存在は今までも物語中で母の不在や、代理母という形で描かれてきた。本作では空襲の火により母親は奪われ、“同じ顔をした”もう1人の母親・夏子に主人公・真人は預けられる。

真人は思春期の多感な時期にあり、新しい母親に対してどのように接すればいいのか葛藤がある。そこには父への軽蔑も混じっていると感じる。軍需産業で良い地位につき(これは実際に宮崎駿の父親がモデルとなっている)市井では手に入らない砂糖をもたらし、学校に車で大見得張って乗り付ける父親に対して、真人は得意げにはならず、嬉しそうなそぶりも一切見せない。
自分が父親の庇護により存外の益を享受していることに対して、彼はきまりの悪さを抱きながらも、喧嘩の後に自傷して学校という居心地の悪い場所から自分を遠ざけることに利用する。これが終盤彼にとっての“悪意”として告白されるのは、世界に渦巻く欺瞞から目を背けないという意志の表出であり、原作「君たちはどう生きるか」をなぞったアプローチといえるだろう。

自傷した彼は看護されながら特権的な身分を手に入れる。心配する周囲の人間に対して悪い気がしながらも、犯人に復讐するという父親の英雄的思考をやはり真人は苦く思っているように見える。そこへきて彼を執拗に焚き付けるのがアオサギである。

アオサギに母親の生存を仄めかされることで、真人の中に母親を包む火がまだ燃えていることが意識させられる。夜遅くに帰宅した父が夏子とイチャつくところを目撃し、2人が親である前に男女であることを真人は感じ取っただろう。そして本当の母親が生きているのであれば、自分は母親のために尽くさなければと。

その後夏子の行方不明から始まる下の世界の冒険は、その展開の不毛さもあってあまり整理ができていません。業界自体の批判やアップデートを説いているようにも見えたが如何に……

夏子は自発的に下の世界へ行ったのか?それとも呼び出されたのか?そこにもう一つ彼女自身の物語があるように感じた。
夏子は夏子で母親になることの準備が出来ておらず、姉の子である真人の母親になることに加えて、自分の身籠った初めての子のことで思うところもあったのだろう。
あの産みの部屋に入ることがまずかったのは、命を生み出すということが聖域化されているだけではなく、真人が実質的には他人であり、その苦しみを背負うことはできないから、という産みの孤独に端を発しているように感じた。
そこへきて夏子の中に母を見出し、お母さんと呼ぶ真人……そもそも真人くんの感情が読み取れなさ過ぎる。

ワラワラとペリカンの撃墜シーンは、こうやって世に作品が出たり、潰されたりするんだなあというメタファーとして観ていた。
顔のない死の匂いがするクリエイターたちが釣れた魚(ヒットした作品)から栄養をとって、作品の卵であるワラワラたちをなんとか世に出そうとするのだけど、貪欲なペリカンども(スポンサーや配給社?)に食い潰され、可能性の芽を摘まれてしまう。それを庇護するために強権を発動するヒミ様(作品の理解者)だが、いくつかの作品はその火=愛に耐えられず犠牲になってしまう。真人は焼かないでくれと頼むが、そんなものは甘ったるい話だ(作品としての強度が足りないのだ)っていう。
母親の厳しさ、もう一つの意味での(作品を世に出す困難さという)産みの苦しみを描いたシーンだったのではないかと……違うか。

気になったのは、下の世界が南洋であること。
作中でもサイパンの陥落が報じられ、多くの日本兵が死んだことが示唆される。その南洋を死者の世界と見立て、「我を学ぶ者は死す」という門を立てる。
多くの人間を自決に追い込んだ当時の日本に蔓延していた精神性、そこから連なる自分たちの作り出したアニメ業界の奴隷労働体制を真似するなよ、というメッセージと捉えるのは早急すぎるだろうか。
この「我を学ぶ者は死す」の原典にあたるかわからないが、林房雄「四つの文字」はまさしくそのフレーズが主題となっている短編だ。それは戦争の当事者としてある意味確信犯的にその世情を生き尽くした者が最後に残した言葉「学我者死」であった。
自分はやりたいようにやったが、それは破滅の道であり、同じ道を歩むものは死ぬだろうと。
宮崎駿自身の言葉だと考えても、彼に学んできた者の多さを考えると、皮肉や照れに近いものかもしれない。しかし、石の塔がスタジオジブリだとして、死者の漂う海に建っていることはやはり意味深である。

触れ込み通り宮崎駿の自伝的な内容であり、母親をめぐる要素はまあ盛りだくさんとして、今まで宮崎駿とともに仕事をしてきた人間への供養であり、最後に何か打ち立てようという記念碑的な事業であり、次世代にアップデートを望む期待をメッセージとして添えた作品なのかなと、余計なことを考えながら見ざるを得ないくらいよくわからなかった。