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君たちはどう生きるかのrakanのレビュー・感想・評価

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
5.0
スコア10.0!!!観るべし観るべし観るべし!!!!

と、レビューした。と、いうのも多くの人が考える通り、ネタバレなしで驚き倍増、感動マシマシだと思ったから。ただちらちらとレビューをざっと見たり、ネットニュースでみると賛否両論が激しいらしい。

 わからないなりに、「さすが宮崎駿」と、大多数が思うだろうと思っただけに、ちょっと驚いた。なので、いま現時点で思ったり気づいたりしたことをレビューとして残しておこうと思う。

 ただ前提として、"わからない"ことへのネガティブな感情は持ちすぎないほうがいいというのが個人的な思いだ。

 とくに宮崎駿が提示しているのは、私たちがふだん当たり前だと思っている筋道とはちがう答え、あり方、見方だと思うから。すなわち"別解"である。"別"というのだから、"本筋"があって、はじめて"別"は成立する。"本筋"と"別"はつねに表裏一体だ。ファンタジーにとって大切なのは、私たちが普段過ごす上で見逃してしまう"小さな声"をいかに掬いとっていくか。そして私たちの日常の事物のすぐそばにそういった”別”なものがあると思わせる想像力を喚起するかどうかだ。

 なにかの辻褄があわなかったからといって、そこにストレスを感じるのではもったいない。この映画を観てみて、少しでも自分の記憶にあるものと結びついたり、はかりしれない何かへの連想が広がるだけでも良かったと思えればハッピーなのではないかと個人的には強く思う。宮崎駿が現在この作品を投げかけたことを称賛したい。

 とはいえ、ただの”わからない”だけでは、よくわからない現代アートということになってしまう。優れた作品というのは、いくらわかりえない部分があっても解釈可能性を残しているものだ。





以下、完全にネタバレ


■《千と千尋の神隠し》との共通点と違い
 まずネタバレが厳禁な理由は、まさかの途中からのファンタジー展開へのサプライズのためだろう。ジブリを多少でも知っているひとは、最初のストーリー展開を《風立ちぬ》、途中からのファンタジーを《千と千尋の神隠し》との共通点を見るのではないだろうか。

 とくに《千と千尋》との共通点でいえば、主人公が別世界に行き、さまざまなイニシエーションを経て、元の場所へリターンするという構図だ。
 ただ《千と千尋》の特徴は、主人公の成長が微妙繊細に描かれていて、英雄伝説的な海外のアニメーションとは違う点だと思うし、その作品解釈を一筋縄にしないところが、宮崎駿作品の日本的表現のように思う。その繊細具合は《君たちはどう生きるのか》でもそうだった。主人公は塔のなかのファンタジー世界から、現実世界に戻れたのだけども一体何が変わったかといえば、わかりやすいかたちで提示されているわけではない。

 とはいえ2つの作品で描かれる世界には大きな違いがある。
《千と千尋》で描かれる世界は、主人公の千尋とはまったく関係のない別の世界であるのに対して、《君たちは》の世界はどこか主人公・眞人の意識や記憶が反映されているように思えるからだ。

■塔の世界は、眞人の脳内世界
 先に結論じみたことをいえば、《君たちは》の塔の世界は、眞人がつくりあげた脳内世界だろうということだ。母を失った悲しみをのりこえるため、そして母代わりとしてあらわれた夏子を受容するため、生と死の連環する世界、そして矛盾と悪意にみちた世界を生き抜こうと決意するために創造した世界。まさしく箱庭療法的につくりあげた世界をイニシエーションの場として創造している。

 たとえば、眞人の母親であるヒサコは、戦火による病院の火災で亡くなるが、塔の世界では火を操る少女・ヒミとして登場する。印象的なラストシーンでの眞人との対話。将来死ぬのに現実の世界の戻るのかと眞人が問うたとき、たとえそうだとしても、眞人のような素敵な子どもが生めるなら幸せ、火なんて怖くない、というセリフは、眞人にとって救済の言葉だ。前半での眞人の想像では、火に悶えて眞人に救いを求めるヒサ子の幻想とちょうど対比になる。
 つまりイニシエーションを通過したうえでの眞人の心境の変化と重なるのだ。ヒミが火を自由に扱える存在になっていることは、火に苦しんだヒサコを解放するための救済装置である。

 ほかに、消えた夏子と再会するシーンでは、夏子はすごい剣幕で眞人に「あんたなんか嫌い」と叫ぶ。はたしてこれは夏子の本心だろうか。正直、現実世界での描写を見るかぎり、夏子なりに愛をもって献身的に眞人を想っているように見えた。
 私の解釈では、あの夏子は、眞人が想像する夏子の姿だったのではないか。現実の世界で献身的な夏子に対して心を開こうとしない眞人。つわりで苦しんで眞人を一目見たいといっても、一言ことばをかけただけでその場を去ってしまう。もしかしたら、そんな自分の罪悪感が、あの恐ろしい夏子をつくりあげてしまったのではないだろうか。その夏子に対して、眞人ははじめて「夏子お母さん」と叫ぶ。眞人にとってのハードルを超えた瞬間だ。

 あの若くて猛々しいキリコの姿も、安易にあの老婆のキリコの若かったときの姿と想定してよいだろうか。若いキリコの姿も、眞人が「死」についての案内人としてつくりあげた存在ではないだろうか。
 サメのような異世界の魚をさばいて、不思議な妖精のようなワラワラという存在が天にあがる姿をみて、それをペリカンが捕食する残酷なシーンを目撃し、しかしまた息絶え絶えになったペリカンと会話し、生と死の連環を知り、丁寧に地面を掘って葬る。
 こうして眞人は「死」とは何かについて自分なりの真実をえる。この世界の最初にあった門に「われを学ぶものは死す」と書いてあった意味は、学ぶことで「死」ということを知るの言い換えかもしれない。キリコが「眞人」という名前を聞いて「死」を連想するというセリフも伏線になっているのだろう。

 ほかにも部分的にだが、お守りが老婆たちの姿をとっているのも、看病してもらったときの記憶を投影したものであろうし、インコが包丁を研いでいるシーンも、前半で矢じりを老人に削ってもらっていたシーンと重なる。

■脳内世界といえる解釈可能性

 もちろん、眞人の脳内世界というには、現実の世界との接点が多すぎるという指摘もわかる。ただアオサギが話しかけるシーンは眞人しかみていないし、夏子が矢を放ってアオサギを追い返すシーンも、眞人が直後に倒れているために、もしかしたら夢だったという可能性が考えられる。崩れた木刀も、夏子の部屋にあった弓も、先の出来事が本当だったというには確証的なものではない。もっといえば夏子が森に消えていったというシーンも、実は眞人の証言でしかない。

 とはいえ老婆の証言によれば、塔は隕石が落ちてきてつくられたものだということ、ヒサコが幼少期に一年間行方不明だったという事実を語る。(とはいえ老婆の証言だからなあ・・・)
 また、現実世界の扉に手をかけて、眞人とヒミが外の世界にでたときには父親に目撃されているし、父親もインコの化け物め!と叫んでいる。
 ただ強引だが、あのシーンも、もし父親とは見えている世界が違っていて、眞人が塔のなかから一瞬出てきてまた引っ込んだだけ、インコも一斉にあらわれたから、思わず父親が叫んでしまった、という解釈をすればこじつけられなくもない。ちなみに記憶では、ヒミの存在に関しては言及していなかったように思う。(見えなかったんだっけ)

 眞人が脳内世界をつくるかもしれない、という伏線はいくつか張られているように思っている。前半では何度も母の幻影を見てしまっているし、吉野源三郎の『君たちはどう生きるのか』と一緒に平積みになっていたのはイソップ童話だった。つまりファンタジー、おとぎ話系の本だ。その童謡と『君たちは』のストーリーが掛け算することでつくられたのが、もしかしたら「塔の世界」なのかもしれない。本の世界に入り込んでしまったということでいえば、もしかしたら不思議の国のアリスにも近さを感じる。

 『君たちは』の原作は主人公コペルくんとおじさんとの物語だったが、塔の世界でも眞人と大おじさんという構造になっている。ただ、単にビルディングスロマン的な解釈にしていないのが、宮崎駿らしさだ。はたして立派な人間とは何か、成長とは何かという答えはむずかしい。そこを微妙繊細に描くことの大切さを問うている点では、純粋な教養主義的な原作に対するアンチテーゼにもなっているかもしれない。とはいえ、原作をちゃんと読んでいないので、読めば物語との関連性もいくつかみつかるかもしれない。

 ここまで一気呵成に書いてみたが、そうはいってもまだ謎が多いし、矛盾点もいっぱいあるだろう。

 最後にいくつかの他の仮説と問いを並べ立てておく。そしてこれからでてくるであろう、より精細綿密なレビューを参考にしていきたい。

【仮説】
・登場する鳥たちは現実の人間のメタファー?
 →アオサギ、ペリカン、インコ(特に)

・インコが大おじさんの世界に行ったときのセリフにどんな意味があるか
 →「あれがぼくたちの祖先ですか?ここは極楽ですか?」

・吉野源三郎のテーマとの違いは何か?
 →純粋なビルディングスロマンにはしていない

・キリコのいた世界はなんの象徴なのか
 →遠くにあるヨットの群れ、カヌーをこぐ影たち(眞人の記憶の断片?)

・力をもった石の存在
 →お守りの石、電気が流れる石壁、世界創造のための積み木の石
 →石は意思?
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