ベイビー

君たちはどう生きるかのベイビーのネタバレレビュー・内容・結末

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

8月2日に何も情報を入れないまま今作を鑑賞。言いたいことが多すぎて、考察も纏まらないまま翌々日レビューを投稿。

その後もこの作品への考察意欲が収まりきれず、自分の頭の中を整理するため同月12日に再度映画館にて鑑賞してきました。

なので、2回目を観たら今作に対する見方も多少変わり、その感想をレビューに追記したかったのですが、文章が纏まりにくいうえ、無駄に長い文章になってしまったので、結局レビューを大幅に書き換えてしまいました。

(*元のレビューはコメント欄に移してあります)



以下、勝手な考察とネタバレ。

今作は箝口令的なプロモーションをされてますので、まだ作品を観られていない方はご注意下さい。




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今作の後半で“石”が重要な要素として用いられ、“悪意のない13個の石”という言葉も出てきたりした。正直“13個”の意味は分からないが、“石“は“意思“のことなんだろうなと、僕は勝手に想像しながら作品を観ていた。そうすれば「君たちはどう生きるか」というタイトルとも繋がりやすい。

物語の中で「ここの“石”のほとんどは穢れている」というようなことを言っている。では“ここ”という世界とは何処のことだろうと考える。もちろん物語の中に描かれたあの不思議な空間ではない。宮崎駿監督が示したかった本当の場所は、きっと現代に実在するこの世の何処かだと想像する。

眞人とヒミが目指した塔の中では、“石”が二人に向かって敵意剥き出しに攻撃を仕掛けてきた。仮に“石”を“意思”と置き換えた場合、その場所は「敵意の“意思”が集中して人に襲いかかってくる空間」となってくる。そこに居るのは人マネ上手なインコの群れ。そんな“鳥”たちが集う場所だと考えれば、“ここ”が指す場所は“Twitter”ではないかと想像できる。

そうなると“インコ大王”はイーロン・マスク氏に見えてしまう。買収して手に入れた国の権力者。穢れのない(人の)石(意思)を躊躇いもなく一刀両断してしまう剛腕さは、彼の生き方に似てなくもない。余談だが、彼が電光石火の如く“Twitter”のブランドを“X”に変えたのも、この作品が公開されて約一週間くらい後のこと。実にタイムリーな話である。

そして、無自覚にウソをつく青鷺。悪意の視線で縄張りをパトロールし、異物を見つければ執拗以上に攻撃を仕掛けるインコの群れ。自分が喰うべき獲物を忘れ、空を高く飛ぶ方法も忘れ、自分らしい生き方までも忘れてしまったペリカンたち。こうして“ここ”に棲む鳥たちは、“ネット”という籠の檻に囚われた者たちの歪んだ姿として描かれている気がする。戦時中の価値観から遠く離れた、別次元の存在として…

僕が最初にこの作品を観たとき、宮崎駿監督が現代社会に生きる者たちを憂いているように感じた。自分の実態(身体)を現実に置き去りにして、意識(脳)だけがネットに繋がっているこの時代の未来を嘆いているようだった。

そして、そんな自分たちに向けて、監督から、

「自分の“意志”はどこにある」
「これから君たちはどう生きる」

と、真正面から問われているように感じる。

こうして勝手な妄想を膨らませながら考察を並べてきたが、このように作品捉えてみると、意外と「なぜ今作は箝口令を敷いてまで、メディアでのプロモーションを一切行わなかったのか」の理由も説明できる。もし今作をソーシャルメディアなどでプロモーションしてしまえば、この作品の全てが嘘になってしまう。集客欲しさにソーシャルメディアを使って宣伝するということは、この作品で伝えようとしている“意志”を自らの手で殺してしまうことになるのだ。



以下は追記の考察。

この作品で異様に感じる場所の一つが、夏子が子どもを産むだために籠った“産屋”の存在。天井から吊るされたクルクル回る白い短冊の付いたモビールは「天空の城 ラピュタ」の“龍の巣”を想起させ、その特異性によって、あの場が特別な場所として強調されている。

ここで眞人は夏子に会うために禁忌を犯してしまう。眞人がここで触れてしまった禁忌とは、子を産むために用意された“産屋”に躊躇いもなくズカズカと立ち入ってしまったことだ。そのことは何となく理解できる。しかし“産屋”に入ることがどうしてあそこまで怒りを買う禁忌かは、今の日本人ではとても分かりづらい。

そもそも“産屋”とは何か。以前、日本では出産には“穢れがある”とされ、そこで母家が穢されないよう本宅とは別に別宅が建てられた。それが“産屋”である。生後七日間は母子共に“産屋”から出ることを禁じられていた。

そのまた昔、安産を願って“産屋”の屋根に鵜(う)の羽を葺(ふ)いたとされている。“鵜”と“葺く”。合わせて“うぶ”という語呂合わせの願掛けである。今作でも夏子が居る産屋にかけられたカーテンが、鳥の絵をモチーフにしたデザインだったようにも見えたが、それが“鵜”を描いたものだったかとなると定かではない。

ちなみに鵜の仲間にペリカンもいる。あの“下の世界”に棲むペリカンたちが、穢れを祓える力があるかどうかは疑問だが、“下の世界”から“上の世界”へ人となろうと準備している“わらわら”を集団で喰い散らす姿を見ると、どうしても安産を願う鳥には見えてこない。

それはさておき、出産後、母子共に“産屋”に隔離されるこの七日間は「チガワカイ(血が若い、産後の身体がまだ元に戻っていないという意味)」とか「ヒガアル(穢れがある)」又は「ヒガワルイ」と言われ、夫が“産屋”の敷居をまたぐことはなかった。芥川龍之介の短編「産屋 萩原朔太郎君に獻ず」には、妻から七日間は決して産屋に入らないこと、と言われていた夫が、六日目に我が子見たさに堪えきれず入ってしまうと、妻が産んだのは七匹の小さな白蛇だった… という話がある。

ここで言う“ヒ”は“火”であるとされている。“火”は穢れのあるものとされ、出産のあった家の“火”は「産火(さんび)」と呼ばれていたらしく、その穢れは“死”の穢れよりも忌み嫌われていたという。ある地域では昭和20〜30年ころまでこの風習が続いていたとされているから、もちろんこの作品での時代設定と一致している。

穢れがあると言われる“火”。それを理解すれば“火”を操るヒミが、あの時“産屋”に入らなかった理由も説明がつく。そして身籠った夏子が“産屋”に入ってきた眞人に怒り出した理由も何となく分かる気がする。それは「神聖なる“産屋”が穢れてしまう」「お腹の子が穢れてしまう」という観点から怒ったのではない。“産屋”の意味をよく理解すれば、あの時の夏子の心境は、あの場所に入ったことで眞人が穢れてしまうことを恐れたのだと思う。

眞人が頭に怪我をして帰ってきたとき、夏子は眞人に「ごめんなさい」と謝った。姉から預かった大事な子に、怪我をさせてしまったのは私のせいだというのである。それはひとえに自分が身籠っているからこの家は“穢れてしまった”と言っているように思える。だから夏子は身を隠すように大叔父の塔へ行き、“産屋”としてあの場で我が子を産むつもりだったと想像できる。

しかし、そんな夏子の真意は眞人に届かず、眞人は“産屋”に入り、禁忌を犯したことが“石”に見つかってしまう。すると天井に吊るされ回転を続けていた白い短冊が、眞人に向けて一斉に攻撃を仕掛けてきた。

思い返せば、確かに眞人が自分で付けた頭の傷跡は、ヒミの持つ“火”と同じくらい穢らわしい“血”の跡だ。眞人が“下の世界”に来れたのも、自ら頭に傷をつけたせいである。自傷をする愚かさ。それはラストでも自ら「悪意があった」と語っている。

その穢れを祓うかのように、白い短冊の紙たちは容赦なく眞人に襲いかかっている。そしていつしか白い紙たちは、芥川龍之介が「産屋」に書いていた“白い蛇”。もしくは“龍の巣”に棲む“龍”の姿となって眞人を襲っている。

ここでいう“紙”は“神”ともなる。“産屋”に立ち入るという禁忌と“自傷”という禁忌。この2つの禁忌を犯した眞人は“神”の怒りを大いに買ってしまった。

よく考えると、“下の世界”に居る者たちは皆穢れた者と言える。ヒミがどんな経緯で“ここ”に迷い込み、どんな事情で“火”を操れるようになったか知らないが、ヒミの“ヒ”は“火”であることは想像できるし、夏子は出産を控えることになり、穢れた身体になっている。眞人は自分で自分を傷つけた時から、青鷺の声が聞こえるようになり、そのため“下の世界”に導かれるようになった。

では、このような穢れた“下の世界”に於いて「悪意のない13個の石」とはなんだったのかということも改めて気になってくる。“悪意”とは心の“穢れ”。そう理解したとしても“悪意”と“13”という数字が何かを表しているかが直接は繋がってこない。

それで何か引っ掛からないかと調べてみたら、何となくそれらしいものが浮かび上がった。それは「レビ記 13章」というもので、「レビ記」とは旧約聖書の中にあるモーセ五書のうちの一書。その13章目に書かれている内容は皮膚病に関すること、今で言うハンセン病のことが記載されている。

昔、祭司は皮膚病の感染を防ぐことと、カビの繁殖を防ぐことを目的とした診断が求められた。その診断の際に感染の恐れがあった場合、祭司から「穢れ」の宣告をされたという。すると、宣告された者は、衣服を裂き、髪をほどき、口髭を覆わなければならなかったそうで、これは親族が死に直面したときに行われる動作を表している。そして自ら「穢れている」と言わなければならなかったそうだ。

昔の日本にもあった“もらい病差別”という悲惨な歴史。この行為は病だけにとどまらず、人格そのものを否定されてしまうらしい。“穢れ”とは、それほど忌みされ、嫌われ、恐れられていた。しかしイエスキリストは“穢れた”とされる者たちを排除することなく、むしろ親しく接しられ「人はさまざまな事情を抱えているが、人格的には皆平等です」と訓えられた。

そしてイエスはモーセとアロンに「皮膚に湿疹、斑点、疱疹がある者は祭司のところへ連れて行き、その者は、1. 清い者か、2. 隔離して様子を見なければならない者か、3. 穢れた者として宿営の外で住む必要があるのか、を判断させなさい。また疑いのある者は1週間隔離して、1週間後に大丈夫と思うようであれば、また元に戻してやりなさい」
と言っている。

「レビ記 13章『皮膚病と汚れについて』」より参照
https://mana-mh.com/archives/883

何となく“穢れがない”と“13”を絡めたキーワードだけでこの文章を引用してみたのだが、劇中終盤に海が割れたシーンが描かれたことを考えると、モーセ五書のうちの一書であるこの「レビ記」の引用に当たりをつけたのは、あながち間違いではないのかも知れない。もし仮に、大叔父が築き育てたあの場所が、“穢れ”を持った者たちを“隔離する場所”と捉えれば何となく全てが説明できる。

下の世界に棲む鳥たち。自らの手で自分を傷付けた眞人。穢れと言われる“火”を操るヒミ。身籠った夏子の身体。古の訓えや土地の風習によれば、そこに居る全ての者が“穢れている”。あの場所はその“穢れ”を癒すために隔離された空間だとしたら、この物語の結末は、“穢れた者たち”が全員元の世界に戻った上で、イエスの言う「人はさまざまな事情を抱えているが、人格的には皆平等だ」そして「受け入れてやりなさい」。という寛容な心を以て物語を纏めているように感じる。

眞人が下の世界へ落ちたとき、最初に訪れたのが黄金の門のある墓。結局最後までそれが何の墓か分からないままだったが、その立派な門には「我を学ぶ者は死す」と刻まれており、その地への侵入を拒み続ける風格をもたらしている。

その文字を眺めている時、眞人は突如ペリカンに襲われる。その状況を見ていたキリコは眞人を助け、自分の家で世話をすることした。そのとき船上でキリコは眞人に名前を尋ね、眞人が自分の名前を教えた後、キリコは「“真”な“人”か… 早死にしそうな名だ」と、さも当たり前のように言っている。

眞人が“下の世界”で踏み入れたあの墓の場面から、キリコの言葉までの一連の流れを読み解くと、あの黄金の門に記されていた「我を学ぶ者は死す」の“我”とは、“真(まこと)”のことを指しているかと推測できる。“真”を学べば“死”に至る。その“死”とは肉体的な“死”ではなく、“人生の死”と解釈すれば分かりやすい。

“真”とは“穢れなきもの”
“眞人”は“穢れなき人”

眞人は穢れなき者として、大叔父の後継者になるべく人間。しかし、この穢れた世界で“真”を見つけることは、砂漠にばら撒いた砂粒をまた一粒ずつ見つけ直すようなもので、生涯でいくつ見つけられるか分からない。そんな環境に身を捧げて世界のバランスを保ち続けるということは、それは“人生の死”に等しい。そこは正に“地獄”である。

しかし眞人は眞人なりに、世界の均等を守る方法を見つけたようである。それは友達を作ること。元の場所に戻ったら友達をたくさん作り、皆で守ると大叔父に向けて宣言している。ヒミやキリコのような友達、そして青鷺のような友達を作るとも言っている。

「嘘つきの鷺が『自分は嘘つきだ』と言った」

その鷺の言葉は本当なのか、それとも嘘なのか、という“嘘つきのパラドックス”の話。答えが永遠に見つからない不思議。こうしてこの世は矛盾で作られ、この世は“嘘”と“真”で出来ている…

嘘と真

眞人が“真”であれば、青鷺は“嘘”の化身。眞人は青鷺を友達として認めることで、嘘と真、光と影、生と死、清さと穢れ… この世に相対する全てが“嘘つきのパラドックス”のように、矛盾を抱えたまま、二つの隔たりを曖昧に溶かしくれるのだと信じているのではないだろうか。そして共に生きようと。

眞人が引き継いでいく世界線

そこには嘘もあり、穢れもあり、もちろん真もある。
それが本当のバランスなのだと言っている気がする。


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気に食わなければ人に攻撃をする石(意思)たち
悪意ある者たちに火(非)を以て抵抗するヒミ
禁忌に触れた眞人に攻撃を仕掛ける紙(神)々
古より伝わる“穢れ”の忌み(意味)

こうして言葉遊びのように要所を繋げていけば、難解だと囁かられているこの物語も少しだけでも自分の中で腑に落ちてくる。とても面白い経験だった。久しぶりに考察しがいがある作品と出会えた気がする。

美しく躍動的な作画といい、個性溢れるキャラクターといい、豪華な声優キャストといい、独創的なストーリーといい、全てが実に気持ちのいいエンターテイメントだった。本当に素晴らしい作品だと思う。

宮崎駿監督には、まだまだ作品を作り続けてほしい。

そう心から願う。
ベイビー

ベイビー